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もう10年か、まだ10年か。

東日本の震災から3月11日で10年。
テレビやラジオでも震災の特集が組まれたり、備えをしておきましょうと呼びかけがあったり。

だけど、当時のことは10年の間に少しずつ記憶が曖昧になっていくこともあったりして、10年の節目、自分の中で一度思い出して、記録に残しておこうと思う。

あの大きな地震が起きたとき、私は訪問と訪問の間の移動時間で、車を運転中。
急に、ズモモモモ…と地面が大きな音を出したと思ったら、ジェットコースターに乗ってるみたいに浮いたり沈んだり。

いきなり運転中に起こり得ない状況に遭遇し、私はブレーキペダルを踏んで、ハンドルを力いっぱい握っているのが精一杯だった。

随分と長い時間揺れていたのがやっとおさまったときは、足は震えて、心臓はバクバク、少しの間呆然。

落ち着いて我にかえり、連絡!と思い携帯で事務所に電話しようとするも、携帯が繋がらない…。旦那の携帯にも繋がらない、子供の学校や学童クラブにも繋がらない。

自分に落ち着けと言い聞かせ、やるべきことを考える。子供は学校にいる時間だから、先生が何とかしてくれてるはず、旦那は何とかなる。
次の訪問先にとりあえず向かって、安否確認をしよう、と判断し、信号機も止まって道路も混み合う中、いつもの倍以上の時間をかけ、次の訪問先に向かう。

やっと辿り着いた次のお宅、利用者さんは、酸素療法継続中。マンション5階、エレベーターは使えず非常階段で5階へ。酸素は家族が外出用のボンベに繋ぎ変えていてくれて問題なし。予備のボンベもまだある。この方、週3回、入浴し、浴後は全身に軟膏を塗らなければならない。

とりあえず、体温、血圧を測り、呼吸状態を観察。いつもと変わらないことを確認して、ほっとする。
さて…風呂はどうしようか、と言うことになり、ご本人、ご家族に話を振ると、「今は揺れも落ち着いたし、風呂も沸かしたてであったかいから急いで入ろうよ」とのこと。

入るんだ…入るんだね、うん、まあ、そう言うとは思ったけどさ。しゃあねぇ、私も腹を括るか!
この方、大の風呂好き。慢性心不全と肺気腫の既往もあるのに、熱い風呂が大好き。夏場の介助はいつも私の方が脱水寸前、ふらふらになる程。

揺れがきたら、急いで風呂から上がることを条件に、何とか入浴。無事に軟膏も塗ることができた。
ご家族に、電話がつながるようになったらすぐに酸素の業者に替えのボンベを持ってきてもらうように話し、その日の訪問は無事終了。

さあ、これからどうするか。電話は通じない、信号機もついていない…とりあえず、どのくらい時間がかかるかわからないけれど、子供の学童クラブに向かうことにした。

いつも最後のお宅から直帰で子供の学童クラブにお迎えに行っていた。車で20分もあれば着く。ただ今日は信号機も消えて、道路も大混乱の大渋滞。3時間かかってやっと学童クラブにたどり着いた。

当時小学校1年生だった長男、揺れが落ち着いてから、学校の先生が学童クラブまで送ってくれたとのこと。お互いの無事な顔を見て、良かったー!と抱き合う。学童クラブでは、コピー機が揺れで大幅に動き、大変だったと指導員の先生が話していた。

学童クラブから帰宅。普段なら車で10分のところ、1時間近くかかる。旦那とはまだ連絡つかず。

旦那は夜中に帰宅。いつも乗っている電車の線路沿いを、携帯のライトを頼りに3時間以上かけて歩いてきたと。会社に泊まればよかったのにと言うと、とにかく家族の顔を見て安心したかったと。

停電はしていたが、何とかカセットコンロは使えたので夕飯を食べ、皆同じ部屋で休むことにした。

長い1日が終わった。
その後、たくさんの事柄に、考えさせられる日々がつづく。
その後の記憶はまた思い出しながら書こうと思う。

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