2011年3月11日のこと

2011年3月11日。

東北人として忘れられない日、忘れてはいけない日。
そう思い筆を執っている。

看護師をしていた私はあの日は夜勤明け。
前日21時から翌日9時(実質10時)まで働き、食事をとって
寝ていた。

14時46分、揺れで目覚める。地震だ。
わりと大きそうと感じ急いで1階に降りる。
揺れがおさまる様子はないため、
玄関の扉を開け、まだ雪の残る屋外へ、まだ元気だった母とともにでた。

今まで感じたことのない大きな揺れ。
自分の力ではどうすることもできない状況。
ひたすらしゃがんで揺れが収まるのを待った。
激しい揺れは長かった。
いつもの地震とは違うと確信。
ここで死をむかえるかもしれない・・・

震度5強であったが、幸い家屋に大きな被害はなく、
揺れがおさまり家に入ることができた。
物は散乱していたが、物品の破損はさほどなかった。

急いでNHKニュースをみる。
(周辺市町村は停電していたが、私が住む市は停電はなかった)
各地の被災状況、震度、ニュースが飛び込んできた。
リアルタイムで仙台空港の状況も映っていた。

津波がきていた。
津波はあっという間に仙台空港をのみこんでいった。
見たことのない光景に言葉を失う。
衝撃とともに知人たちの顔が浮かんできた。

みんな無事だろうか。
病院は大丈夫だろうか。
親戚のおじちゃん、おばちゃん大丈夫かな。
数日後みんなと連絡が取れ、無事を確認できた。

リアルタイムで流れてくる光景、頻回に起きる余震で
どんどん不安になっていった。

看護学校から14年間、私は仙台に住んでいた。
学生時代は若林区、就職してからは宮城野区に住み、
職場もほぼ宮城野区だった。
友達と海水浴をした荒浜、先輩たちとバーベキューをした七ヶ浜、看護学校の宿泊訓練でいった志津川、職場の人と行ったビール工場、
いつも行っていた多賀城の大型スーパー。
いろんなところが津波の被害を受けていた。

仙台は沢山の想い出のあるところ。
その想い出も流されていく感じがして、涙があふれてきた。

自分でさえ胸のしめつけられる状況。
実際に被害を受けたり、ご家族が亡くなられた方の思いは
どれほどなんだろう。
さっきまでの日常が地震であっという間に壊される。
大切な家族が突然亡くなる天災のおそろしさ・・・

3.11ほど平凡な日常、今生きていることのありがたさを感じる日はない。
12年経ってもあの日のことは忘れない。
自分にできることは、日々を大切に生き、3.11を忘れず、
あの日の体験を伝えていくことと思う。

14時46分には黙祷をささげます。






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