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エジプト旅行記⑤ 〜考古学博物館の展示物〜

古代エジプト文明とは殆どの場合、紀元前3150年頃から紀元前30年までの約3000年間を指します。それはつまり、ナルメル王が上下エジプトを統一してからクレオパトラが自害するまでの出来事であります。そして今日ご紹介したい場所は、この長い長い歴史の中で作られた素晴らしい彫刻や絵、宝飾品が一挙に集まるエジプト考古学博物館についてです。博物館はカイロの中心地、タハリール広場の一画にあります。ぜひ皆さんにもこの博物館を楽しんで頂きたく、数回に記事を分けて、展示品のほんの一部ですが紹介していきたいと思います。写真は私が実際撮ったものと、そうでないものがありますので、その点はご理解ください。

初期王朝時代から古王国時代

紀元前3150年頃エジプトは統一されたと言われています。それまではナイル川下のデルタ地帯を指す下エジプトと、ナイル川上であるデルタ地帯以南の上エジプトは別の国でした。やがて上エジプトはデルタ地帯に武力で攻め込み、制圧し上下エジプト統一を果たします。そして最初の王の座についたのはナルメル王だと言われています。

初期王朝(第1、2王朝)と古王国時代(第3〜第6王朝)の流れを極めてざっくり説明しますと、川上から上エジプトがデルタ地帯の下エジプトを攻め込み第1王朝が誕生します。統一後、少しずつ安泰へ向けて国づくりが進み、500年ほど経つと階級やインフラが整い、組織はしっかりとしていき、王国と呼べるほどの高度な文明を持つ国家になりました。
この頃が古王国時代の初期、第3王朝時代でピラミッドが作り始まる頃です。ピラミッド作りは今で言う公共事業の様なもので、大きなピラミッドができるという事は中央集権体制が整っている事や治世が安定しインフラが整っている証拠です。

第4王朝の頃になるとますます国は栄えていきます。ギザの三大ピラミッドが出来たこの時代、国の振興も建築技術も1つ目のピークを迎えたと言えるでしょう。

第5王朝の頃にも沢山のピラミッドが建造されました。またこの頃からファラオの神格化がより強くなり始め、神殿作りにも注力されるようになります。地方自治に関して言うと、今で言う行政機関が広範囲まで行き渡るようになっていきます。

そして古王国時代の最後の第6王朝時代では国づくりはかなり進んでいて、結論から言うと広くなり過ぎた国を統治しきれず第1中間期と呼ばれる時代に繋がっていきます。
第6王朝時代のファラオにペピ王という人物がいますが、彼は100歳まで生きて長い期間エジプトを治めていました。彼の元で長く働く高官たちは次第に富を増し、力を強めていく事になります。彼が亡くなる頃には国は事実上分裂していてました。ペピ王死後の3年間、2人もしくは3人のファラオがいましたがやがて地方自治が進み古王国時代は終焉に向かったと、ざっくりとこの様な流れです。

それではまずは、エジプトを統一したナルメル王の栄光を讃える作品からを紹介します。

ナルメル王のパレットと呼ばれるものです。これに関してはどなたかの素晴らしい記事がありますので是非お読みください。このパレットは5000年前のものです。日本ではまだまだどっぷり縄文時代です。

次に、ギザの大ピラミッドを作った王たちを紹介します。第4王朝の時代、親子3代のファラオによって建造されたピラミッドですが、一番大きな第1ピラミッドはクフ王によって建造されました。高さ138メートルもある建造物がどうやって作られたのか、今も謎のままです。

こちらがクフ王の像、象牙製で大きさは手の平サイズの7.5cmです。あれだけのピラミッドを作れたのだから大きな像を作っていたはずですが、完全な形で残っているものはこちらのみだそうです。

こちらがカフラー王の石像です。第2ピラミッドを作った王で、クフ王の息子です。この像を横から見るとこのようになっています。 

後頭部から鷹が王を守っています。正面からは全く見えないように作られているので、横に回ってください。鷹なのでホルス神です。玉座側面には2種類の植物のモチーフで、こちらは上下エジプトの統一のシンボルです。

では次は、カフラー王の子供であるメンカウラー王の像です。

力強く一歩を踏み出しているメンカウラー王の左側には、牛の角と日輪のモチーフをもつハトホル神がいて手を繋いでます。ハトホルは小さく左足を出しています。右の女性は地方の女神だそうで、2人を見守っている感じでしょうか。

このメンカウラー王の像もカフラー王の像も岩を彫ってあります。非常に細かく滑らかに仕上げられていて、当時からの技術の高さを感じます。

ファラオ以外の像も展示してあります。

石灰石を彫り彩色が施され、眼には水晶がはめ込まれています。こちらは第4王朝時代の王子ラーホテプと奥様のネフェルトの像で、約4600年前の作品です。マスタバ墳つまりお墓から見つかった像で保存状態が素晴らしく良いです。ラーホテプ王子はスネフェル王の息子だとされていて、クフ王と異母兄弟だと思われますが、短命だったためファラオになる事はなかったそうです。

続きまして、

書記官の像です。当時、書記官はかなりのエリートだったそうです。どちらの作品も動き出しそうなくらいリアルで、技術力の高さを強く感じます。

私のしていた勘違い

私は昔からエジプトに憧れていましたが、それは多分テレビの影響だと思います。子供の頃見ていた万物創世記や、世界ふしぎ発見を始めとしたクイズ番組、その他の特番などでもエジプトが取り上げられる事が多く、ピラミッドを見てみたいと思うようになるのは当然の事だったと思います。

日本のエジプト特集の番組のオープニングは決まってギザの三大ピラミッドから始まりレポーターが、
「ついに来ました!エジプトです!」
と言い、ピラミッドとラクダのアップが流れます。するとナレーションが始まり、ツタンカーメンの黄金のマスクの映像が出てくる…。

番組はだいたいこの様な始まりだと思います。この映像構成のせいにするつもりはありませんが、ツタンカーメンの黄金のマスクはピラミッド付近で見つかったのかと思っていました。でも実はツタンカーメン王墓は王家の墓、つまり現在のルクソールにあり、カイロからは飛行機で向かう程遠い場所です。

また、ツタンカーメンが生きた時代はピラミッドが出来てから1250年ほど後の事です。794年、鳴くよ鶯 平安京が今から1225年位前の事なので、ピラミッドを作ったクフ王とツタンカーメンの間にもほぼ同じ時間の隔たりがあります。旅行準備の為にエジプトの勉強して、この事を初めて知った時は驚愕でした。恐るべしエジプトです。

それでは、次回の記事ではツタンカーメンの生きた新王国時代くらいまでの紹介をして行こうと思います。


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