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エジプト旅行記④ 〜エジプト考古学博物館〜

エジプトの至宝といえばと聞かれたなら、ツタンカーメンの黄金のマスクを思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。

エジプト考古学史上 最大の発見

1922年、世紀の大発見はイギリスの考古学者ハワード カーターによってもたらされました。3000年以上昔の古代エジプトのファラオの墓が、盗掘被害がほとんどない完璧な状態で出土しました。ご存知の通りツタンカーメン王墓の発見です。

この王墓から出てきた副葬品は5000点以上にもなり、その時価総額は400兆円とも1000兆円とも、とにかく天文学的数字が飛び出しますが、比類なきこの財宝を貨幣価値で表すことなど到底出来ない真のエジプトの至宝であります。そして、この黄金のマスクや玉座などを直に見ることができるのが、カイロのタハリール広場にあるエジプト考古学博物館です。

いよいよ旅の始まり

2018年12月26日、9時40分カイロ着の飛行機で私はエジプト入りしました。無事に到着し手続きを済ませ、すぐに向かった先がエジプト考古学博物館です。なおここでエジプト観光に行く際に、ご注意いただきたい点があります。空港に着いたら通常の入国審査に加え観光ビザの取得が必要ですので、事前に方法は確認をしておいてください。

エジプト考古学博物館は空港からカイロ中心地方向へ車で約3、40分のところにあります。この淡いオレンジ色の建物を見た瞬間に、世界ふしぎ発見で見た映像を思い出しました。空の色が日本ともドイツとも違って、エジプトに来たことを妙に実感しました。

それではまずチケットの購入ですが、入場券のみはEL160、ミイラ室とセットはEL300です。また別料金にはなりますが、館内の写真撮影やビデオ撮影が可能です。もちろん私もカメラ券を購入しました。(今現在、EL1=6円程です)


考古学博物館は二階建てになっています。まず一階は入り口から左周りに見ていくことで、古王国時代〜中王国時代〜新王国時代〜プトレマイオス朝時代〜グレコローマン時代と時系列に見学できます。二階に上がるとツタンカーメンのエリア、ミイラ室のエリア、棺類のエリア、そしてその他の副葬品といった感じになっています。展示品は20万点を超えると言われており、主要な展示品をさらっと見て回るだけでも最低2時間はかかります。旅行日程に余裕があるのであれば、旅の最初と最後に2回訪れる事をお勧めします。展示品の詳細に関しては次回の記事で紹介したいと思います。

エジプト考古学界の重要人物

もし皆さんが考古学博物館に行ったならば、ぜひ挨拶をしてほしい方がいます。それは初代館長のオギュスト マリエットです。博物館の建物を正面に見て左に歩いてください。100メートルほど進むと、腕を組み満足げな表情で博物館を見守る男性の像を見つけるはずです。彼がオギュスト マリエットです。

1849年、マリエットは初めてエジプトの地を踏みます。彼は母国フランスのルーブル美術館から特派員として特別な任務を命ぜられたいました。その任務とは、コプト語やシリア語で書かれた文章を集めルーブル美術館に持ち帰るというものでした。しかし彼はエジプト到着後まもなく、本来の目的よりも古代遺跡を発掘することに注力するようになります。この頃の彼が発掘した遺跡で有名なものがサッカラにあるセラペウムです。(セラペウムは現在、見学が可能です。)そして彼は4年間をエジプトで過ごし、多くの発掘品を母国フランスのルーブル美術館へ持ち帰りました。

この頃の時代背景として、フランスやイギリスを始めとしたヨーロッパ諸国は土地や資源、奴隷を目的にアフリカ大陸進出を進めている頃でした。古代エジプトの遺跡から出る発掘品もどんどんヨーロッパに渡って行きました。まだそれら発掘品が美術館等に飾られるのであれば良いのですが、貴族たちの単なるインテリアとして利用される事が多々ありました。エジプトへ旅行に来た貴族たちは見つけたミイラや宝飾品などをこっそり持ち帰って行ったのです。また学者や冒険家たちも発掘品を貴族たちに売ることが金を手に入れる方法の1つでした。この時代に多くのミイラが失われたと言われていますが、その理由の1つに貴族たちはホームパーティのイベントとしてミイラの包帯を開封する遊びをしていたそうです。全く趣味の悪い話です。

エジプト考古学界に転機

任務を終え帰国していたマリエットが1857年、再びエジプトに赴きます。翌1858年には遺跡や出土品の管理強化のためエジプト考古局が設立されました。エジプト国内で、自分たちの大切な宝物を守ろうという意識が高まったという事になります。そして、マリエットはこの考古局の初代長官に就任します。このことから前回のエジプトでの4年間は、母国フランスだけではなくエジプトでも高く評価されていたことがわかります。そして重要な点は以前は出土品をフランスに持ち帰る役目だった人が、これからは逆に外国流出を減らす立場に変わった事です。

マリエットの活躍

マリエットは地中海からアスワンまでの広い範囲での発掘調査を指示しました。全盛期では3000人のスタッフを動員し、35拠点の発掘を行なっています。そして長官就任の5年後の1863年、発掘品の保管や補修、そして展示を目的としてカイロのブラークという場所に考古学博物館が誕生します。初代館長はもちろんマリエットです。その後、社会情勢の混乱や家庭での災難もあり、必ずしも彼の思うように発掘や調査が行えない事もありましたが、マリエットがエジプト考古学界に偉大なる貢献をしたことに何の間違いもありません。

晩年は糖尿病を患い治療のため母国フランスに一時帰国するも、最後の時を博物館近くで迎えたいとの本人の意向により、1881年にエジプトにてその生涯を閉じました。60歳の誕生日をあと3週間で迎えるところでした。彼は今、エジプト考古学博物館の庭で安らかなる眠りについています。

とても綺麗な写真ですが、どこを写しているか分かりますか?ローマのスペイン広場です。大階段の先、天を指差しそびえ立つのは古代エジプトのオベリスクです。このオベリスクはセティ一世と息子のラムセス二世の二代に渡って掘り出されたもので完成は紀元前12世紀頃、ローマに運んだのはアウグストゥス帝との事なので、ちょうど紀元前後の頃です。

確かに飾りとしてとてもカッコ良いです。30mを超える一枚岩のオブジェの存在感は圧倒的です。しかし、このオベリスクを見て誰がエジプトの偉大さを感じるのだろうかと思うと、とても悲しくなります。さぞかしローマ帝国は強かったのでしょう、世界には古代エジプト時代のオベリスクが30本あり、そのうちの13本はローマにあるそうです。

私はエジプト考古学博物館に行った翌日、カルナック神殿にてオベリスクを見ました。かのアウグストゥス帝もローマへ運ぶのを断念した程大きかったです。

古代に遺跡が作られて、中世には外国に運び出されて、近代になって世界中からの協力で発掘が進められ、私は今そのエジプトに来ているんだなとつくづく感じていました。マリエット、偉大ですよね?

最後に…マリエットが亡くなったのは1881年で、現在の場所にエジプト考古学博物館が新設されたのは1902年です。つまりマリエットの銅像の目線の先にある博物館を、彼は見ていないという事になります。だとするとこのポージングに表れているのは、マリエット本人の思いというよりは、銅像を建てた人たちの気持ちなのだと思います。最大の敬意と感謝がそこにあります。エジプト考古学博物館を訪れた際には、ぜひ彼にもご挨拶を。


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