弓木あき

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めくる|エッセイ

 本の背の上端から伸びる、紐状の栞。これを〈スピン〉という。  すべての本についているわけではない。だから手にした本にスピンを見つけると、嬉しくなってしまう。顔をほころばせながら、つまんで根元からすっと引く。すると、指先にくすぐったい感覚が走る。大好きな瞬間だ。この絶妙な力加減、伝わるだろうか。  わたしは今、壁一面の大きな本棚に向かい合う場所でこの文章を書いている。目の前にはたくさんの本。そのうち何冊かから、スピンの先がはみ出ている。重力にしたがって真っ直ぐ下に垂れてい

    • さよならする

      「体を大事に、心を大事に。健やかに。愛をもって」  まるで嘘みたいな、青い空の日。わたしは大学を卒業した。  卒業式の開始まで、あと十分。わたしは研究室の隅で、一人パソコンを立ち上げていた。大丈夫、始まりに戻っただけ。大学のホームページを開き、「ライブ配信はこちら」という文言を探す。コロナ禍を経て、卒業式の様子はオンラインで配信されるようになっていた。URLをクリックして、パスワードを入力すると、晴れ着姿の卒業生たちでいっぱいの講堂が、画面に映し出される。と、その瞬間。研

      • 言う|短編小説

         ほんとありえない、山は、何度めかの相槌で共感を示した。注文した品が未だ運ばれてこないから、小さめのテーブルには、水の入ったコップが二つ、虚しく並んでいるだけだった。 「バレンタインは何か渡した?」 「いや、向こうバイトあるからって。会えないって分かって、もういいやって思っちゃって。二週間くらい会ってない」  奈央は聞いてよ、とばかりに話を続ける。 「前もさ、今日話したいことがあるんだけど、って突然ラインが来て。私、その日中に提出の課題がまだ終わってなくて、すごい焦ってたの。

        • 許す|短編小説

          「許せなくていい。許さなくていいんだよ。許さなくてもいいっていう許しが、君自身を救ってくれるんだ」  SNS上で知り合ったあの子とは、初めはチャットでやり取りをしていたが、次第に電話でも話すようになっていた。  きっかけは、SNSに投稿している写真だった。夕陽がきらめく水面に、そよぐ木々の葉。商店街に伸びる影。都会を走る猫。写真が好きだと言うあの子は、この光の加減が、この画角が、とわたしが撮った写真の感想を丁寧に伝えてくれた。  「言葉は人を表す」とはよく言ったもので、あの

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        めくる|エッセイ

          飾る|エッセイ

           美術館が好きだ。展示物はもちろん、椅子や照明などのインテリア、さらには建物の建築にも心がときめく。趣味は美術館めぐりです、なんて言うのはおこがましいけれど、いつも気になる展覧会がたくさんあるから、帰りに立ち寄ったり、休みの日には美術館をはしごすることもある。  展覧会の後には、ポストカードを買うのがお決まりだ。展示されていた作品や、美術館の建物が描かれたもの。本物の作品を手に入れるのは少々ハードルが高いけれど、ポストカードなら手頃な値段で嵩張らない。そして、お気に入りの一

          飾る|エッセイ

          華やぐ|エッセイ

           いつか観葉植物と暮らしたい。  東京での生活を再開してからというもの、わたしの中で憧れに似た気持ちがすくすくと成長していた。だって、室内に緑があれば、おうち時間に癒しがあれば、きっと毎日が楽しくなると思うのだ。  そんな折に中学の同級生と食事に行った。彼も地元を離れて暮らしているのだが、話の中でなんと自宅で植物を育てているらしいと知った。それもときどき話しかけたりしている、と。いいなあ。羨ましい。素直にそう感じた。  すっかり影響されてしまったわたしは、ついに観葉植物

          華やぐ|エッセイ

          こだわる|エッセイ

           わくわくしながら、ご飯が炊けるのを待っている。今日は、炊飯器で、炊き込みご飯とおかずを一緒に作っているのだ。いざ、炊飯器の蓋を開ける。緊張の瞬間。湯気と同時に、いい匂いが部屋いっぱいに広がった。やった、大成功だ!  わが家のキッチンはとても狭い。玄関の脇に一口コンロと流し台がくっついているだけだから、キッチンと呼ぶにはあまりに頼りない。十分な調理スペースもないから、この部屋は自炊には向いていないのだと思う。その不便さとうまく付き合いながら何とか自炊を続けるために、日々試行

          こだわる|エッセイ

          見える|短編小説

           淡いブルーの空を、飛行機が横切っていく。その真っ白な機体はあまりにも鮮明に、まるでミニチュア模型のようにくっきりと見える。翼を広げているが、決して羽ばたくことはない。僕は十九歳で、葉桜の季節だった。紙に定規をあてて線を引くように、機体は夕陽に染まる木々のあいだに吸い込まれた。そこには、始めから終わりまでのみちすじが既に存在しているようだった。  樹下には椅子があった。椅子はぐるりと幹を取り囲むように作られていた。どの椅子も半分ほどが木のシルエットで日陰になっていて、人々は自

          見える|短編小説

          待ち合わせる|エッセイ

           上野駅で、友人と待ち合わせ。  この日のお目当てはフェルメール展。17世紀オランダの画家ヨハネス・フェルメールの作品を中心とした展覧会だ。  チケットに記載された入館時間まで、美術館の周辺を二人で散歩した。やっと咲き始めた桜や、雪柳の白い花。襲いかかってくる鳥たちに、少し黒い雲を映す水面。春の気配が漂う上野を、わたしたちはコロコロと話題を変えながら歩き続けた。  途中で足を踏み入れた神社に「必勝祈願」の文字が見える。すれ違う制服姿の高校生が眩しい。なんとなく参拝の列に並ぶ

          待ち合わせる|エッセイ

          刺さる|短編小説

           困った。棘が抜けない。  それは突然現れた。ちょうど、スマホを手に取ったときだったと思う。右手親指の腹に、ピリッとした痛みが走った。見ると、小さくて真っ黒なものが顔を覗かせている。あー、棘だ。つい無意識に、人差し指の爪で引っ掻く。痛い。めちゃくちゃ痛い。感覚の全てがその一点に集中しているかのようだ。どうして人間は自分の体の痛いところに触れたがるのだろう。本当に愚かな生き物だ。  何はともあれ、棘なら抜いてしまえばいい。痛いのは御免だ。左手の親指と人差し指で、何度か先端をつ

          刺さる|短編小説

          選ぶ|エッセイ

           新しい眼鏡を買うことにした。  時間をかけて、じっくりと何かを選ぶ。わたしはそのような買い物が苦手だ。可能な限り事前に買うものを決めているし、実際に手に取っても、それが本当に欲しいと思えなければ買わないことだってある。  綺麗に陳列された眼鏡のフレームたちは、かえってこちらが見定められているのかと錯覚するほどに、不思議な威圧感を放っている。眼鏡屋さんという場所は、いつでもどこでもピカピカしていて明るい。眩しくて眩しくて、とてもわたしには似合わない空間。できるだけ早く、こ

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