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私は都築響一に人生を狂わされて救われたのかもしれない

私がはじめて都築響一を知ったのは、たぶん小学校の高学年か中学の前半の頃だったと思う。

その頃の私の将来の夢は「インテリアコーディネーター」で、といってもさほど強い想いがあったわけではなくて、もっと子どもの頃に私が家のポストにはいってるマンションのチラシとかに載ってる間取り図をやたら眺めているのを見て、母親が「インテリアコーディネーターになったら」と言った、という程度のきっかけで、なんとなく同級生が言ってるケーキ屋さんとか花屋さん(お嫁さんなんていってる子もいた気がするけど、今思えばすごい)よりは、カタカナだしかっこいいかな、って感じで、バカのひとつ覚えのようにそう言ってた。それでも、社会人になって他の仕事のほうが向いてると思うまでは意外にブレずに目指してたし、今もまったく無縁とも言えない仕事をしてるくらいだから、母親の見立てはあながち的外れでもなかったのかもしれない。

そんなわけで一応インテリアには興味のある子どもで、小学生か中学生の頃から、都内の大きな書店に行くとインテリアのコーナーで外国のおしゃれでかっこいい住宅の写真集や雑誌なんかを手にとって悦に入ってたのだけど、そんな時、私は書店の片隅に積み上げられた都築響一の『TOKYO STYLE』を見つけて、完全に心を奪われてしまった。

どのページにもぎゅうぎゅうに詰まった文字と写真。それ以上に住んでる人の偏愛や表現欲やリアルが誌面からあふれんばかりに詰まっていた。どう考えてもおしゃれではない下町の木造アパートに、床が抜けるんじゃないかと思うくらいの本やレコード、洋服。壁に張り巡らされたポスター。そこにあるのは、生粋の団地育ちだった私にも一目でわかるくらいの明らかな貧乏暮しなのに、なぜかすごくかっこよくて、リアルさと熱量にクラクラした。

私はかっこよくてスタイリッシュなインテリアをデザインする人になりたいはずなのに、こういう暮らしにうっかり憧れを抱きそうになったし、本当にイケてるってこういうことなんじゃないかと、自分でも混乱してのを覚えている。少なくともこういうのはインテリアコーディネーターなんて名乗ってる職業の人にはぜったいに作れない。たしか大判サイズのその本は、当時の私には高くて買うことはできなかったのだけど(その後何年も経ってから文庫版を見つけて飛びついた)、あとにもさきにも、あんなに私の心にこびりついて離れなくなってしまった本はない。思えばその時から私のインテリアの路線はちょっとブレてしまって、学生時代に一応専門的な勉強をした時も、いわゆるちゃんとおしゃれでスタイリッシュなインテリアをデザインできなくて困った。(まぁそれはその後に読んだ『Satellite of LOVE』にも絶対影響されてるけど。) 

そんな感じでTOKYO STYLEのせいでインテリアコーディネーターという私の夢は錯綜してしまったのだけど、今となってはそんなことはどうでもよくて、都築響一はもっと大きなスケールで私の人生を救ってくれたと思っている。

この人の視点は常に「普通よりちょっとダメな人」に対していつもやさしい。
帯にも書いてある

多数決で負ける子たちが、
「オトナ」になれないオトナたちが、
周回遅れのトップランナーたちが、
僕に本をつくらせる。
は本当にどの本を読んでも実感できる。

私自身は、まともな親にまともな教育を授けてもらい、それなりにちゃんと仕事もしてる。ゴールデン街で呑んだくれた経験もなければ、バンドマンにもホストにも貢いだりしていない。かといって、いわゆる優等生にはなれなくて学校の先生とはほとんど馬が合わなかった。会社でキャリアを積み重ねる愚直さもなければ、婚活でハイスペック男子をゲットする根性もない。いい歳をして独身で、しょっちゅう洗濯物や食器を溜め込みながら不規則に暮らしている。

世間から見れば、そういうやつが一番面白くないはずで、いてもいなくてもさほど変わらない人間かもしれないけれど、でもそんな私にも、プライドや経験や表現したい欲求は常にある。都築響一の本は、そういう”普通の人のダメなところ”を肯定してくれるし、そういう誰しもがもっている表現欲求を常に面白がっている。彼の本に登場するような人は、私よりさらに”ダメな人”も多いので、それを見て「あぁ私のほうがだいぶまとも」と思って安心するという側面も否定はしない。でもそれ以上に、私も常にカミヒトエだと思うし、いつどう転ぶかはわからないわけで、それでも、最後までそういう人間に価値を見出そうとし続けてくれる人が(親みたいな身内とは別の文脈で)世の中にいてくれるのだ、というのはとても心強いのだ。

それと同時に、都築響一の差し出してくるコンテンツを面白いなぁと感じている自分に対して、おかしな言い方かもしれないけど「私ってえらい!」と思っている。名の知れたアーティストや成功を収めた人、すでにスポットライトが当たっているものに興味を持つのは当たり前だ。でもそれだけじゃ、世の中の醍醐味は全然わからない。名の知れぬ人々にも、強烈な自己表現や偏愛やドラマがあるわけで、それを面白がれるかどうかで、人生における豊かさは天と地ほど違う、と本気で思っている。たぶん、”都築響一的”面白さは、わからない人は絶対わからないので、”わかっている自分”を心の底から褒めてあげたい。しかも、世の中には名の知れない人のほうが、名の知れた人よりはるかに膨大に存在していて、そこに興味を向け出したら一生飽きることはない。毎週送られてくるメルマガROADSIDERS’が、毎回スクロールしてもしても終わらないくらいの文字数が2通とか3通送られてくるのも納得できる。(おかげで毎週全然読みきれない…)

『圏外編集者』を読んでみたら、この人はすごくいろんなものを山ほど追いかけてるけど、頭の中はとてもシンプルなことがわかった。編集者なんだから自分が興味をもったことを追いかけて、わかったことは気取らずに全部だして、お金がなかったら工夫して。基本はそれだけだ。きっと世の中のほとんどのファッション誌やカルチャー誌や建築誌の編集者は、読者の一歩先とか半歩先の理想を提示するのを使命と思ってるのかもしれない。そういう雑誌の存在もあっていいけど、みんながみんな通り一辺倒すぎるし、そんなものばかり見せられても正直しんどい。そんなことばっかしなくても、世の中のリアルはそれだけで充分魅力的なものだらけで、それらを写真や文章で伝えながら、なにか共通項を見つけては並べ替えて、カテゴライズしたりタイトルをつけていくのが編集者の本来の役割なはず。

問題は、都築響一に続く編集者はいるのか?というところだ。今はデジカメもあるし、Webマガジンもあるし、かつての苦労に比べればはるかに簡単なはずなのだけど、追随する記事や編集者(ライター)はなかなかお見かけしない。地方の地に足をつけた市井の人々を紹介するような目線は昔よりは増えたけど、それもまた結局はキラキラしたものを紹介しようとしてることには変わりないような気がしてあまり好きになれない。都築響一自身もまだまだ現役とはいえ、私よりはだいぶ年齢は上なはずで、順当にいったら、私は都築響一亡き後の世界を何十年か生きなければならない。こうなったら、私自身が自分の足で取材して、写真撮って、文章書いて…いわゆる自給自足を考えたほうがいいかしら。


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