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添削について

添削を受けたことがなかった。高校時代に作歌をはじめ、大学入学と同時に短歌人に入会した後も誰にも直されることなく自分の表現を発表しつづけたことが、正解なのかどうかわからないまま、一度短歌から離れた。

短歌人に再入会する三年ほど前から、新聞の地域版の文芸欄に短歌の投稿をしていたのだが、これが(選者によっては)しばしば直されて掲載された。もちろん「良く」変わっているのだが、違和感は拭えない。「私の子じゃない……」という感じ。あるいは、保育園で勝手に成長してきたわが子を見て悔しいような淋しいような気持ちになる感じ。(私には子供がいないので友人の話を参考にしているが、この比喩であっているのだろうか。)

テレビの番組などで他者の短歌が添削されているのを見ても、時にもとの歌の生き生きとした魅力が削がれてしまっているように感じることがある。魅力をより引き出すように直されているときは素直に感心するが、どこまでがもとの作者の作品なのだろうかという疑問は残る。ほとんど「改作」といえるような大胆な添削もあって、作者としては朝小学校に送り出した娘が夕方ハリウッド女優になって帰ってきたような気分になるのではないだろうか。(どうも比喩に自信がない)。

そんな私だが、恐ろしいことに添削を「した」経験がある。定時制高校の国語科の教員をしていた十年以上前のこと。生徒たちが作った短歌をプリントにまとめて、公開授業で発表することになり、先輩教員に「発表するのだからきちんとした形に整えてあげたほうがいい」とアドバイスされ、抵抗を感じつつも実行した。
そもそも強制的に短歌を作らせることにどれくらい意味があったのかもわからない。さほど興味のない状態や、興味はあっても心あまりて言葉足らず、という感じで作られた短歌は五七五七七のリズムにもなっていないものも多かった。とにかくそうした作品を、無理矢理に三十一文字になるように直した。意外にも生徒たちは、「短歌っぽくなった」と喜んでくれていたように記憶するが、口に出さないだけで釈然としない思いでいた者もいるかもしれないし、私も未だに釈然としていない。

添削とは、かなりの信頼関係と技量を必要とする、微妙で繊細なものだと思う。

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