『真砂集』を読む
『真砂集』は1975年生まれ短歌アンソロジーとして2017年11月23日に発行された。参加者総勢22名。多士済々である。タイトルは笠郎女の〈八百日行く浜の真砂も我が恋にあにまさらじか沖つ島守〉から採ったという。
最初にそれぞれの作品12首とプロフィール。プロフィールの記し方にも個性があって面白いのだが、作品を見ていこう。
飯ヶ谷文子「帰る場所」
ただいまと言はれて帰る場所となる五月の木々が息吸ふごとく
表題作は自らが「帰る場所」であることを瑞々しい比喩で肯定した美しい歌だが、
同居人がカレー作りし翌日のコンロと床を黙して磨く
夏休み返上なればビーサンで出勤したってえええぢやないか
あたりもリアルな手触りを感じて魅力的だ。
生沼義朗「空間時間」
梵鐘の残響左右(さう)に揺れるなか空間時間とわれも揺れたり
把握が大きく折り目正しい秀歌だと思う。
冷蔵庫にバナナは黒く熟しおり甲高き午後にサイレンは鳴る
カーテンのドレープ深し 冷房の効きすぎている会議はつづく
上の句と下の句の絶妙な離れ具合と、下の句の微妙に捻れた感じ(普通に考えれば甲高いのは午後ではなくサイレンだし、「会議室」ではなく「会議」そのものに冷房が効いているという表現も独特だ)に注目した。
太田青磁「京に上る」
家族との京都旅行をテーマにした連作。
白川のせせらぎ聞こゆ祇園には千五百円のわらび餅パフェ
高っ、と思わせたら勝ちなのだろう。具体的な品名金額を出したことで(おそらくは昼間の)祇園の雰囲気を伝えることに成功した。
がまぐちを昨日も今日も買っている娘は平成生まれと思えず
平成生まれだからこそがまぐちが珍しいのかもしれないが、父が娘をちょっと理解しがたいものとして眺める視線が面白い。
職場用、中のいい人用、自分用 それぞれの菓子を見つくろう妻
こちらは妻の歌。よくある情景だろうが、丁寧に詠んだことにより可笑しみが生じた。
小田たくみ「赤が欲しい」
流し込むトマトジュースが呼び覚ます昨夜の私を誰か殴って
おだやかな真昼ひとりで丼にひたすら七味の雨を降らせる
どこか追いつめられたような、自罰的な歌だ。スピード感のある詠みぶりに揺さぶられる。
もう拾えないものばかり それなりにどうにかなった人生だけど
選んで来なかった、選べなかった無数の可能性を思いつつ「この人生」を生きることの苦さ。
後藤由紀恵「ボタンを外す」
端正な文体をかなしみが充したような挽歌の一連。
ああ影が妙に濃くなるつかの間の生者と死者のまじわる夜は
ああ、という歌いだしは難しいと思うのだが、ここでは動かない。深深としたいい歌だ。
それぞれに違うかなしみ湛えたる献杯のグラス重ねるわれら
故人との関わりは人数分異なる。本当の意味では、かなしみさえ分かち合うことができない孤独感。
自転車で帰るあなたと笑いつつ別れき夏の大宮駅に
スナップショットのような何気ない思い出の描写が送られる人の生前の面影を立ち上げる
小林さやか「水平線」
つと窓に切り込んでくる水平線どこへ行こうか夏は真っすぐ
上の句は車窓の様子であろうか。確かなデッサン力を感じさせ、下の句の伸びやかな物言いを支えている。
二十年分の日記は捨てたので美(は)しきもののみ見て生きていく
かたちよく暮らしき日々空は青シーツの角と角合わす庭
過去を振り返るまいとする強さと、細かな日常を疎かにせず楽しもうとする繊細さが、それぞれ表現された歌と読んだ。
笹公人「今日の気分で自選十二首」
笹氏は発表済みの作品からの自選。
「ドラえもんがどこかにいる!」と子供らのさざめく車内に大山のぶ代
大山のぶ代がドラえもんの声優を降板したのは2005年である。それでもこの歌が自選に入りおそらく笹の代表作でもあり続けるであろうことは、ドラえもんにとってそして真砂集世代にとっての大山のぶ代の存在の大きさを物語る。
君からのメールがなくていまこころ平安京の闇より暗し
平安時代の夜はそれは暗かっただろう。平安時代とせずに平安京としたのは単なる字数合わせか、それとも都で行われていた権謀術数の闇を表しているのか…。「メールがない」ことの比喩だからそれほど深読みしなくていいだろうか。
何時まで放課後だろう 春の夜の水田(みずた)に揺れるジャスコの灯り
郊外の風景を思わせて抒情的である。「夜」てあればもう放課後とは呼べない気がして、そんな時間までジャスコの近くの水田あたりで何してるんだろう、と一抹の不安を抱かせるのも秀逸。
嶋田さくらこ「猫と向日葵」
雑草がすてきに生えている庭のあのおじさんの奥さんはいいひと
ひとりごとのようで、言いっ放しのようだが不思議な詩情がある。雑草がすてきに生えている(これも不思議な言いまわしだ)から直接「奥さん」に行かず「おじさん」を経由したことによって生じる不思議に明るい世界。
向日葵を抱えて走れ 本当のことを知るのはいつでも怖い
怖いからこそ立ち止まらず走るのだろう。
ひぐらしの声の細くて八月尽 当てずっぽうな君のなぐさめ
下の句のやりきれない心細さのようなものを、上の句が補強している。切ない。
瀧音幸司「日々の作業は」
苦い職業詠が並ぶ。
永遠に着けない現場に憧れる火星にある建設現場とか
「火星にある建設現場」という言葉かすかにロマンを感じるが、これには「そんなものはない」という絶望がひったり張り付いている。
どのような艱難辛苦も五時間後終わると信じてスコップを持つ
実際終わるのであろうが「信じ」なければ取り組めないほどその作業は辛く、時間は長く感じられるのであろう。
どうしようこんなにおれは疲れてて明日もあさっても労働がある
苦しい。
月岡道晴「ちはやぶる」
ぎんいろの帆立の殻を伏するごとひかりて札幌ドームはけさも
なるほどという見立て。「ひかる」ではなく「ひかりて」としたところ、心憎い技だ。
あだち充のマンガみたいなズボン穿いて逢ひに来たよねあの頃あなたは
たぽっとした身体のシルエットが見えにくいズボンを、あの頃=あだち充が盛んに作品を発表していた70年代の終りから80年代、90年代の初頭、彼のマンガのヒロインたちは穿いていたような気がする。真砂集世代に訴えかける歌といえるだろう。
告白はつねに過去形取り返しつかなくなりてその意味を知る
例えば「好きだった」と言われたのだろうか。それでは単純すぎるか。どのような告白だったのかに思いを馳せてしまう、奥ゆきのある歌。
中家菜津子「わたしの故郷、きみのふるさと」
ねえ、なにが(埋(まっているの)裏庭にアイスのバーが墓として立つ
不吉さと無邪気さがミックスした世界観。()の使い方に脱帽。
車窓にはきみのふるさと遡上する魚になって線路を過去へ
なるほど遡上する魚は過去自らが属したふるさとへ向かってゆく。それを、巧みに比喩として用いおそらく「きみの」「過去」へたどり着こうとする一途さがまぶしい。
本物の雲が流れる風景画あげたつもりでもらっていたの
魅力的なフレーズでできた歌。本物の雲が流れる風景画、はありえないが美しい。美しい何かを「あげたつもちでもらっていた」という経験は気づかないうちに誰もがしていそうだ。
永田紅「釣り針」
前髪を切れば昭和の子のように、私のようになりて振り向く
わが子を詠んだ歌であろう。平成の子である。しかし前髪を切ると、まるで昭和の時代の、自らの幼少期の姿のようだと思うのだ。
当然のように学生さんたちは”平”を囲みて生年を記す
作者が指導する学生もまた、平成生まれである。淡々と事実を詠っているが、「当然のように」というところにわずかに主観が表れて面白い。
釣り針の返しのような葉が生えて戻ろうとすれば時間は痛い
時間は戻ることができない。思い返すことはできる。しかしそれには痛みが伴うのである。
萩島篤「死にて梔子」
二十世紀なしくづし 二十一世紀梨の礫 二十二世紀死にて梔子
梨の品種にかけて(おそらく自らの来歴としての)二十世紀と二十一世紀を語り、梔子は口無しをかける。冴えわたる技巧と韜晦の歌。
入浴剤(バブ)ひとかけ浮かび来りて天井の裏へと消ゆる暁を見つ
よくある光景だが、このように哀歓ある描写をされるとこれから入浴剤に感情移入してしまいそうだ。
火曜とて風呂に入りてゐたる間に一人殺されてるサスペンス
これもあるあるだが、こうして歌にされると奇妙な気がする。ドラマとはいえ軽い人命。
文屋亮「八月のスケッチ」
あの夏へ 耳から先に戻る宵かなかながそつと押す時の舟
かなかなの声によって過去の夏を思い出した、という内容だと思うが、この上なく優しく秀逸な表現にうっとりする。「かなかながそつと押す時の舟」いいなあ。
八月に誕生日と命日ある祖父の梅酒のかをりひなたのにほひ
祖父を懐かしむのに嗅覚をもってする。梅酒と日向の芳香をまとう祖父のたたずまいまでが思い浮かぶようだ。
象印最強説を唱へつつここに心がない君の顔
怖い歌だ。「象印最強説」が少しコミカルなだけに、「君」の心があらぬ方にあることを見抜いてしまう作者の冷え冷えとした視線とそういう「君」の在り方の両方が怖い。
堀田季何「この街に」
郊外の都会となるに二十年、うち十年を見届けてわれ
高校時代を過ごした街の様子を振り返り、またそのいまの様子を描写した一連だと思われる。随所にたくらみがあって面白い。
金ピカの不労所得を夢見しは真夏の夜の高校時代
シェイクスピアの「真夏の夜の夢」にかけて、高校時代なんて、夢のようなものだと言っているようである。
この街の自称セレブみな無名、他称セレブを見かけてはしゃぐ
celebrityの元の意味は「有名人」だが、「裕福な人」という意味でつかわれることが多い(のは日本だけだろうか)。皮肉がきいた歌。
堀合昇平「so sweet 」
2014年よりブラジル・サンパウロ在住の作者。
シュウマイに海老が光って眩しくて現地人の意志を尊重するなんていうな
字余りに強い苛立ち、怒りが感じられる。
真夜中のトイレにトイレットペーパーをほぐす明日を占うように
それでもやってくる、引き受けなければならない明日を占うのに、トイレットペーパーという卑近なしかし必要不可欠なモノはふさわしい。
わかりあえないだろう絶対。こぶ肉にさらさらと塩ふりかけて
これも破調の歌。やるせなさが伝わってくる。
宮嶋いつく「おれのいもうと」
子を作る営みを知る頃がありその後生まれた妹である
このように表現されただけで、単に年が離れているというだけではない、妹の存在への思い入れが感じられる。
反抗期迎えた頃の妹は親よりおれを遠ざけていた
妹をおれの屍越えてでも欲しいと願う男を捜す
というような歌を読むと、ほとんど父親のような心情ではないかと思うのだが、一連通してみるとなかなかどうしてそれだけではない、一筋縄ではいけない兄妹関係が詠まれているのである。
森笛紗あや「蛸の瞳は」
うれしくて一旦閉じておじいさんに席をゆずって読みかえす返信(レス)
動作が目に浮かぶような可愛らしい歌。
側面を持つと中身がとびだします。肩をやさしく抱きよせたまえ。
紙パックの飲み物についている注意書き、かと思いきや「わたし取扱説明書」?中身がとびだすってどういうことだろう、気持ちが溢れだしてしまうことかなと思った。洒落た恋の歌。
はぐれてもわたしあなたをみつけだす蛸の瞳は広角だから
ってあなた蛸なんですか、と突っ込みたくなりつつもなんだか納得させられてしまう詩情がある。
柳原恵津子「水紋」
よく笑うこども黙っているこども産まざりし子は持たぬ横顔
「産まざりし子」の意味が連作を読むとわかる。重いテーマである。直接的に表現していない作品にもそのテーマが通底し、胸をしめつけられる。
わたしよりわたしを想う人がいて十年分の海辺の写真
自らのこども時代の写真だろうか。
明日とは光ではなく足もとのまだ名を知らぬ花でありしを
美しく、そして哀しい。
山上秋恵「夏の友達」
駄々をこね買ってもらった懐かしのかき氷機をこの夏も出す
物持ちのいい人だなぁ、というのが一読の感想だったが、タイトルにある通り「友達」なのだから当然といえば当然である。
来年の夏も会おうね 最高の氷イチゴを味わわせてね
きょろちゃんを流しの下に仕舞いつつ三つの頃の私も仕舞う
三歳からこんにちまで、様々なことがあったであろう。その間ずっと夏ごとの友達であったかき氷機「きょろちゃん」への作者の思いが過不足なく表現されている。
山本左足「人生ゲーム」
ゲームをテーマにした連作。ゲームをほとんどしたことがない私にとって最も難解な作品であった。少しでも理解できたように思えた三首を引く。
「一万回休め」のマスに寝転んで街の灯りを眺めて暮らす
降り畳み傘を構えてすれ違う人を次々撃つ雨上がり
「振り出しにはもう戻れない。1進め」そうして今日もゲームは続く
普通にゲームを嗜む人にとっては示唆に富む一連なのではないかと思う。
渡邊琴永「短歌のデザイン」
呼吸する歌を詠みたい生活のふとさり気ない場面をそっと
「呼吸する歌」というフレーズが魅力的である。
短歌から紡がれてゆく接点があるから人は詠むのであろう
表現を生涯学ぶ短歌なり辿り着く場所をこれからも探す
短歌に対する真摯で誠実な姿勢が貫かれた連作である。
短歌作品はここまで。
続いて
評論 月岡道晴「熱源としての秋山實ー 一九七五年の短歌をめぐって ー」
真砂集メンバーの生年である1975年の歌壇について編集者秋山實に着目しつつ描きだしている。
エッセイ 柳原恵津子「文語と世代について思うこと」
問題提起、というほどものものしくはないが、立ち止まって考えさせられる文章である。
エッセイ 太田青磁「『葉ね文庫』という贅沢」
大阪にある「詩歌を愛する人々が集うサロンのような雰囲気のある」書店の紹介。店主も1975年生らしい。
1975年生まれ歌人への8つの質問
このアンケートは面白かった。私なら覚えていない、答えられないというような質問にも多くのメンバーが回答していて、1975年生まれの(私より一つ上の)方々はしっかりしているなぁと思った。中家菜津子さんの回答文が全て短歌になっているのもすごい。
書評 中家菜津子「笹公人『念力家族』の二重性」
笹短歌の魔力を解きあかす。
書評 太田青磁「三田たたみ歌集『めぐる季節の回文短歌』」
回文短歌という特殊な、ジャンルに挑む1975年生まれ歌人の魅力を紹介する。
そして、丁寧な編集後記で締めくくられている。
発行人 太田青磁
編集人 生沼義朗
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