キリスト教徒・林あまりのエロス
1 はじめに
林あまり(一九六三~)はプロテスタントのキリスト教徒である。プロフィールには必ずといっていいほどそのことを明記しているし、信仰に関するエッセイなども多数書いている。
キリスト教にとって「愛」とは何か。
新約聖書において「愛」と訳される古代ギリシア語は①アガペー。神の愛、イエスの愛、人間の愛などに用いられる。もとは単なる親愛の情を示す程度の意味であったが、新約聖書で用いられるようになって、神的、自己犠牲的、他者中心的な愛という意味を持つようになった。②フィレオ―。兄弟愛、両親への愛、友情、好みなどを示す。
そして、性的愛を示すエロスという語は聖書中では全く用いられていない。
しかし、林あまりといえばエロスの歌人というイメージで捉えられることが多いのではないだろうか。
生理中のFUCKは熱し
血の海をふたりつくづく眺めてしまう
『MARS☆ANGEL』一九八六年
しばしば「代表作」のように挙げられるこの作品は、「生理中のFUCK」という言葉で読者を仰天させたり顰蹙をかったりしてきたが、そのために詠まれたわけではないだろう。妊娠しにくいといわれる生理中の性交が激しければ激しいほど、その行為の果てに訪れるむなしいエロスが一見間延びした「二人つくづく眺めてしまう」に表現されていると考えられる。それは聖書から最も遠い性愛である。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」(「創世記」九章一節)という祝福の言葉に背を向けたエロスである。そもそもこの歌のある章(「夜桜お七」)は、男に妻のいる不倫の恋を暗示する構成になっており、設定からして背徳的なのだ。
とはいうものの、「生理中のFUCK」から三首おいて置かれている次の歌のように、生命への賛美を感じさせるものもある。
なぞりあう耳のうねりの不思議さに
いのちのかたち確かめてゆく
また、同じ章には以下の二首が収められている。
道端におやまあ小さな耶蘇仏
ひとみの欠けた笑みに手合わす
木のいろの目と髭と十字もつひとの口がうごきて
らぶ、と囁く
「らぶ」とは何か。日本語でアガペーもフィレオ―もそしてエロスも「愛」と訳されるように、英語ではこれらがloveと訳されることが多い。耶蘇仏が囁いた愛は、ときにエロスの中でもがいているようにみえる林作品の主人公(ここではお七)に啓示されたアガペーであるかもしれない。
このように、第一歌集『MARS☆ANGEL』の作品だけをみても、林作品に現れるエロスは様々な愛のかたちにとりまかれ、またそれらを内包している。本稿では、キリスト教徒・林あまりのエロスの魅力がどこから生み出されているのかを探っていきたい。
2 エロスとアガペー
首すじをゆるくかまれて
あ、とおもう間もなくあふれはじめる涙
『ベッドサイド』一九九八年
いいパンチをもらったようにゆっくりと
からだのちからが抜けてゆくキス
『ガーリッシュ』一九九九年
これらの作品は、主体の「ちからが抜ける」瞬間の恍惚を描いている。神の愛を受け入れるときのようなエロスだ。
ただし、林作品の恋愛・性愛の場面に登場する主人公たちとパートナーは対等な関係性を基本としている。
座位なればむなしくはなし
背景の中心として互いを抱く
『最後から二番目のキッス』一九九一年
脚と脚からめて話す
お互いのどこがいちばんいとしい場所か
『ふたりエッチ』一九九九年
お互いの悩みをぬぐいあうように
額に まぶたに くちびるを置く
『スプーン』二〇〇二年
その関係性の中で、受け身で待つ立場に置かれたり、積極的に愛を(ときにその裏返しとしての殺意なども)表現する立場になったりする。複雑でリアルなエロスの世界が繰り広げられる。多くの読者に支持されてきた理由もそこにあるのだろう。
わたしなど与えつくしてしまえたらどんなに楽か
散りやまぬ桜
『ベッドサイド』
のように「与える愛」を望みながら成しえない苦しさを詠んだ歌や、
献身が入りこんだらばらばらに壊れてしまう
恋の純など
共著『新星十人』一九九八年
と、エロスにおける献身の否定ともとれる歌がある一方、
「女には後背(バッ)位(ク)があるからいいよな」と
呟く男を背中から抱く
『最後から二番目のキッス』
つらいことばかりのあなたにくちづける
どこもかしこも清めるように
『ふたりエッチ』
などの作品ではパートナーを包み込むような優しいエロスが表現されている。それはもはやアガペーに近い愛であろう。
3 エロスとフィレオー
林あまり作品においては、女性への連帯意識も特徴的である。
しばしば同性愛的にも描かれる点でそれはエロスの世界であり、同時に「友愛」とも訳されるフィレオーの世界でもあるだろう。
「結婚はしたくないよね」
女たちうなずきあって じゃあ、またあした
『最後から二番目のキッス』
真理という名、真実という名の女たち
抱えるものは語らぬ晩餐
『ベッドサイド』
お気に入りの記憶があるでしょ、落ちついて――
わるい夢に叫ぶわたしを少女は揺さぶる
『最後から二番目のキッス』
いつもいつも少女はわたしに抱かれながら
わたしをあやしてくれた看護婦
同右
これらの歌をみていくと、「女」が主人公と連帯する仲間的存在であるのに対して、「少女」が、保護者のような救済者のような描かれ方をしていることに気が付く。そのような視点からみると、『最後から二番目のキッス』の冒頭に置かれた次の歌は非常に象徴的である。
その少女ならきのう発った、とある人は言い
いやまだ来ていない、とある人は言う
旧約聖書で預言された救済者の到来が、イエスの降誕によって成就されたとみるキリスト教と、それを認めずに救済者を待ち続けているユダヤ教との関連を、この歌にみるのもあながち牽強付会とはいえまい。
また、同歌集に収録されている
美しいくぼみを持っていることを
欠落とする世の人もあり
をフェミニズム的視点から読み解く向きもあるが、私にはむしろ、
「わたしは弱いときにこそ強い」(「コリントの信徒への手紙二」十二章十節のパウロの言葉)に現れているような、人間的な弱みをこそ愛する神の眼差しを「美しいくぼみ」で表現しているように読める。
4 罪のゆるしとエロス
キリスト教徒はアガペーの実践を希求するが、それ以前に神からのアガペーの愛で愛されていることを不断に確認し続けるとされる。それは、神に無条件に愛されなければならない存在である自覚、つまり罪深い人間であるという自覚によってもたらされる態度である。
”生きていたツミ〝用消しゴムみせびらかす
ヤマダ君からまず消しましょう
『MARS☆ANGEL』
死に至る罪を今夜も犯しつつ
クローディアスの祈り呟く
『ベッドサイド』
「生きていたツミ」とは、アダムとその妻イブが神に反逆したことによってその子孫である全ての人間に生まれながらに背負わされているという「原罪」のことであると考えられる。また、「今夜も犯す」罪は十戒によって禁じられた「姦淫の罪」のことであろう。これらの歌にみられる罪の意識が、それを神の自己犠牲的愛(十字架の愛、アガペー)によって「ゆるされる」経験のよろこびへと結びつく。
いくたびもゆるされていま
あたたかい涙のようにほとばしる記憶
『最後から二番目のキッス』
罪のため死んでいた自分が「よみがえる」瞬間を、復活したイエスに出会ったマグダラのマリアに重ねて詠んだ次のような歌もある。
ああわたし あれから初めて泣いている
こんなにも死んでいたのだ、わたしは
共著『私にとって「復活」とは』二〇〇四年
「いくたびも」「ああわたし」は信仰の歌でありながら、なにか濃密なエロスをも感じさせる二首である。
泣くという快楽
おそらく射精より激しい欲求 首の底から
共著『[同時代]としての女性短歌』一九九二年
とあるように、あたたかい涙や泣くという行為は、エロティックなものなのかもしれない。
5 おわりに
林あまりはキリスト教徒である。人的愛(エロス・フィレオー)が神的愛(アガペー)とは異なるものだという断念と、人的愛が究極のかたちをとるとき神的愛に限りなく近づくことへの希望が、林あまり作品のエロスの世界を支え、その魅力を生み出しているのではないだろうか。
(2017年度短歌人評論・エッセイ賞応募作品 課題「短歌とエロス」)
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