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もうひとつのその1 その後のこと

 前回の投稿から一年半が経つ。
あっという間だったように思うが、濃厚な時間を過ごしていた。

一つ目の陀羅尼の訳を纏め上げようとした頃、一つの出来事が起こったんだ。自分にとってとても大きな問題で、とにかくそれに向き合うしかない状況になった。

本当は、法華経のもう一つの陀羅尼__普賢菩薩勧発品第二十八の中の陀羅尼に続けて取り組みたいと思っていた。
これの仏教的訳は、実は10年以上前に出来ていた。陀羅尼品のものよりも簡単に文章になった。けれどあまりにも嵌まったものだったので、その仏教色を解いて再構成することがなかなかできなかった。

 (まだ、何かが足りないんだ。
 それにもう、このことに取り組んでいる余裕はない。
 とにかく一つ目だけは完成させて、あとはまたの機会に……だ。)

そうしてブログから一旦離れた。

起こった出来事の詳細は明かせない。けれど、結局それは自分にとって何だったのかと言うと、
‘’価値観の全く違う何人かの相手と一緒に、一つの目的を達成する。‘’
ということだった。
「なーんだ、そんなことか。」じゃないのです。

私の役割は問題の解決策の発案者であり調整役だった。ほとんどのやり取りが、私を介して行われた。近しい間柄故、感情的にもなる。彼らを尊重はしていても、いつ何をするかわからなかったり、拾える縁をこれでもかと捨ててているように見えたり、突然前言撤回する人等に対し、なかなか苦しい状況が続いた。それでもある程度向かう方向が見えてきて、
 ‘’あーこれで、後は事務処理のようなものだけかー。‘’
と思ったのもつかの間、その事務処理に思わぬ時間がかかっていく。
本人の作業の遅さだけが原因ではなかった。何故かスムーズに事が運ばない。

 (何故ここまで圧がかかるんだ。何故すっきりと進められない?)

すでに何度も、胃を痛めそうになっていた。胃潰瘍は治っていたが、感情を抑制したり、思うことを言わないでいるとチクチク痛み出した。
その度に捉え方を変えて感情そのものを変え、心を軽くしていく。
 ‘’起こることは正しい。そして、必要な所に必要な人がいる。‘’
自分の過去を見て、それを実感していた。
今の自分には、起こってくることの意味は分からなくても、いつか分かる日が来る。そして自分を含めたすべての存在は完璧に配置されている。
 ‘’これでいい、これを生きていくんだ。‘’
事が思うように運ばないことこそが正しいんだと考え直し、
 ‘’この行く先を見届けてやる!‘’
と腹をくくり直した。

そうしていくうちに、やがて自分の心の変化を感じ始める。
事が起こってから一年ほど経った頃のことだった。