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もうひとつのその3 無条件の愛への道

 必要条件のない愛。無条件の愛__。

これまでに私は、自身に纏わりついていたいくつもの固定観念に気づき、時間をかけてそれらを一つずつ剥がしてきた。その結果今ここを、過去の感情の中から見るのではなく、今のまっさらな感情で見ることができるようになった。そして自分に嵌めていた枠も感情の重さを感じては外し、随分楽に息ができるようになって、人への愛も深まった……気がしていたけれど。
こんなふうにそのまま丸ごと受け入れるような愛を感じたことはなかった……。

相手の行動に対する捉え方を変えて感情を選び、それによって喜びの中で生きる。けれどその心の奥底には、まだ相手をそのまま受容することができない、自分中心の自我が居座っていた。早く安心できる状況になってほしいという願いは、裏を返せば状況をコントロールしたいという欲、そしてその奥にはコントロールできないことへの恐れや不安があった。
その原因はわかっている。

__幼い頃から、自分の意思ではどうにもならないような出来事の連続だった。
‘’次にまた何かが起こるかもしれない。‘’
いつのまにか、自覚できないほど当たり前に不安と恐怖を感じるようになっていた。何かを必死に握りしめ続けていた。
‘’被害者意識‘’だった。
これがパニック障害の原因だったと自覚している。
その発作に関しては、予期不安を感じたある時、
‘’ええい、いつまでもこんなもんに自分の行動を制限されてたまるかー!‘’
と自分の本体のようなものが出てきて人生の主導権を取り戻したけれど、起こってくる状況への不安はまだ残っていたんだ。

(わかった気になって、なんもわかってなかったんやん。)

今回事務処理等が一向に進まなかったのは、自分勝手な解釈や判断を除いてもっとしっかり相手を見つめる時間を私に与える為だったとも言える。
……もう彼に対するいら立ちも不信感も消えていた。必要な人として必要な所に存在し精一杯自分を生きている彼を、心から愛しく思った。
そしてその愛は、他の人たちにも波及する。その時の感情で前言撤回した人も、それで良かったんだと思えた。彼にも彼の視点があり思いがあり、その中で決めたことだった。それを尊重し受け入れる。

自分にとって見る必要があったのは、その人の本質そのもの、そのままの姿だった。何人もの人の中で物事がどう運ばれていくのかは、コントロールすることじゃない。それぞれが自分自身を生きることで、流れが出来ていくものなんだ。

この愛を感じるために必要なものを、一つ一つ拾ってきたと思う。いつだっていろんな方法で、‘’こっちだよ。‘’と道を照らしてもらい導かれてきた気がする。
そしていつの間にかその時々の願いがたくさん叶っていることに気づく。様々な思いも喜びに変えられたし、変える方法も得た。この愛を知った。
もう、皆で作るこの先の流れを信頼できる。
何も不安に思うことは無いんだ。起こることは自分の気づきのために活かせるのだから。生きている限りいろんなことがあるけれど、深い視点から見れば、そのどれもが経験したくて自分で決めて生まれてきたんだと思ってる。
何を経験しても、この愛そのものが自分の本体だと感じたくて。

このことで私は、もう一つの陀羅尼の意訳に足りなかった大きなピースを得たと思った。一度はあきらめたことに、それから半年をかけて向かい合うことになる。