じぶん研究所 16.私の学歴と学力 後編

さて、だいぶ間が空いてしまいました。
今回は高校受験~大学卒業までの話です。
前編はこちら↓

さて今回は高校受験の話から。

私は受験について、何にもわかっていませんでした。
親と将来について話し合う、なんていうこともなかったですし、友達同士で話すこともあまりなかったように思います。
塾にでも通っていれば、塾の先生が学校選びとか、いろいろアドバイスとかくれると思うのですが、私は塾にも行っていませんでした(うちにはそんな金がなかったというのが正直なところですし私も「行きたい」って思ったことはなかったと記憶しています)。
が、おそらく、担任の先生とかは進路の説明していたと思うんですけどね・・・どうも私自身の中に、先生から具体的な説明とかをされた記憶がないのです。

記憶にあるのは、母親から「お金がないので公立にしなさい、私立はだめ」と言われていたこと、あとは教室にあった「高校選びのための本」(高校名と偏差値とかが載っているやつ)を見て、「あ、これで決めればいいか」と思ったこと。そのくらいですね。

自分の偏差値がどれくらいか、というのは、たしか学校で(うちはふつうの公立中学でした)「北辰テスト」なるものがあってですね、それで確か偏差値がわかったんですよ。

それで、なーんにも分かっていない私は、
「勉強が簡単すぎると面白くないので、自分の受かりそうな偏差値の範囲内で一番高いところを狙う」というのを第一に考えました。

もちろん母親から言われていた「公立だけ。私立はだめ。」というのを守るために、選択肢は公立校だけです。
そして私自身、高校生になったら「漫画みたいな青春したい」なんてあほなことを考えていたので、男女共学にこだわりました。
それとですね、高校入ったら、自転車通学したいな~なんて思っていましたが、いや電車通学もしたいな・・・なんてのんきなことを考え、最終的に自転車と電車、両方使うような、ちょっと遠いところに決めました。
(うちは家が駅まで遠かったので、家~駅まで自転車、それで駅から電車、という計画を立てていました。自分の中で。)

そこは他市の市立高校だったのですが、母親に志望校を伝えたらですね・・・なんと「県立にしなさい!」と怒られ大反対を食らったのです。

私はこれに非常に納得がいかなくてですね。
だって、母親が最初に提示してきた条件は「公立」であることでした。
市立も、市内だろうが市外だろうが、公立であることに違いはないのです。
私は母親の提示した条件の範囲内に収まる選択をしたのに、怒られる理由がまるでわかりませんでした。
市内生と市外生では、授業料がだいぶ違うので、それで母親は文句を言っていたわけですが、だったら最初から「県立か、市内の市立のみ」という風に条件提示すればいいのです。
それをせず、娘が選んでから、さらに条件を狭めたいというのなら、怒るのではなくもうちょっと言い方あるだろ、という風に思います。

さらにですね、ここに担任の先生が絡んできて、高校選びはどんどん話がややこしくなります。

私は、母の言葉通り「私立は受けない」というのを担任の先生にも伝えていましたが、先生が勝手に「私立の併願推薦を取ってきた」というのです。
で、そこの学校を滑り止めで受けろ、と。

大人になった今なら、先生の気持ちはわかります。
高校受験でどこにも受からず留年なんてのはあり得ない、公立1本だと落ちたら困るから、というので私立の併願推薦を(勝手に)取ってきたわけです。

ただ私にしてみれば、「公立に落ちて私立だけ受かったところで、うちには私立に進学する金がない」のです。だから受けたって仕方ないのですよ。

しかし先生は私立の受験を私にごり押しします。
私は親と先生の間に挟まれてしまったわけです。
もう、こういうのは、大人同士で勝手に話つけてくれよ、と子供ながらに思いましたね。
だってどっちも「大人の事情」じゃないですか。
私立に進学する金がない、のも、高校浪人はあり得ない、という考えも。

で結局、どうしてそうなったかは覚えていないのですが、私立も一応受けることが決まってしまいました。

さて問題は、公立。結局私の希望の学校を受験することになりましたが。
なんか、当時、公立も「推薦入試」がありまして。
それを使うことになったんですけど(こちらも「どうしてそうなったのか」のいきさつは覚えていません)、公立の推薦だと、紙のテストがなかったのです。
確か、内申と、面接だけ。
ただ申し込む際に、「親が一筆書く必要」があったんですよね、志望の理由みたいなのについて。

それに母親が書いた一言
「県立を受けてほしいが、娘が行きたいというので仕方なく志望します」
みたいな書き方をしてきたのです・・・
めっちゃ嫌味ったらしい書き方・・・今思い出してもむかつく。

もちろん、それを見た担任の先生は呆れてしまい。
例文を先生が考え、「この通りに書き直してもらいなさい」ということで、仕方なく親に書き直してもらい提出。

もう、この頃ほんと嫌でしたね・・・
大人になった今考えれば、親にも先生にも言い分があるのはわかりますが。
子どもを、大人の事情で板挟みにするのは本当にやめてほしかったです。

さてそんなこんなで結局ですね、第一志望の公立に受かって、晴れて私は高校生になったのです。

ここからは高校時代の学力の話なのですが・・・
これがまた、大きな声では言いにくいのですけど、成績ダダ下がりでして。
だいたい全教科まんべんなく出来が悪かったのですが、特に数学(数Iですかね)ができなく、なんと100点満点のテストで20点でした。確か1学期の中間テストです。

前編でも書いた通り、私は一応中学時代は、成績は良い方、で通っていました。

が、それはけして「努力のたまもの」でも何でもなく、正直、「ほとんど努力なし」でできてしまっていたので(嫌味に聞こえたらスミマセン)、ぶっっちゃけ「努力の仕方がわからない」という状態だったのです。
高校受験も、先に書いたように、紙のテストをせずに合格してしまっていますから。

1つだけ言い訳すると、私は中学2年からものすごい速さで視力が落ち、中1で1.5あったものが中2で0.7くらいになり、中3で0.3くらいになり、高1で0.くらいになりました。
もうね、黒板なんてほぼ何も見えていない状態で授業を聞いていたわけです。
もちろん学校の視力検査で引っかかるので、親に通知はいくわけですけど。
先にも書いた通り、うちはお金がなかったのです。
当時、まだ今のように安い眼鏡屋がたくさんある時代ではなかったので、眼鏡は高価でした。

それで、高1の時(何月くらいだったかは忘れた)、父親が老眼鏡を作りに眼鏡屋に行く際に、ついでに私のも作ってもらうことになり、やっと眼鏡を作ったのです。

ただ、私はそもそも「自分の学力で行ける範囲の中で一番偏差値の高い学校」に来てしまっていた上に、しょっぱなから躓いているので、眼鏡を作って黒板が見えるようになったところで、大して成績は伸びませんでした。
テストの点数も、親には見せられないようなものばかり。
それで高校時代は通信簿だけ親に見せて、テストは全く見せないという状態でした。(どうせ見せてもわからないだろうし、というのもありました)

ちなみに高校時代に一番成績がまともだった教科は「化学」「生物」の2つでしたね。数学は散々でしたし、英語も微妙。特にリスニングが壊滅的。
国語はかろうじて現代文がどうにかなっていた程度、地理や歴史等の社会科に至っては目も当てられない状況(世界史のテストで35点とかいうありさま)。

そんな感じでしたが、それでも塾には行っていませんでした。

そのため、高卒後の進路についても、早い子は高校入学時からすでに考えて、計画を立てて勉強等していたにもかかわらず、私は何も考えてない、何もしていないというありさま。
それで学校で進路について本格的に指導し始める高校2年のあたりで気づいたのですが、この学校、高卒で就職を選ぶ生徒がほとんどいないところだったのです。みんな、ほぼ、進学。

うちはお金がなかったので、大学進学したいといっても、きっと「ダメ」と言われるんだろうなぁ、というのは考えてました。なので、親には、私からは進学したいとも就職したいとも何も言わず。でも漠然と進学したいとは思っていました。

うちの学校は、高校3年になると、理系志望か文系志望かでクラスが変わる感じでした。高3になると、選択科目が増えるので、高2の時点で希望の科目を書かされました。私は社会科が嫌いだし、できなかったので、たしか有機化学とか選択したんですね。化学の成績がまだましだったし、嫌いじゃなかったから。そうしたら3年生の時にまんまと理系クラスに入れられました。理系というほど、バリバリの理系でもないのに・・・

いっぽう家では、親に対して、私からは進学したいとも就職したいとも何も言わずでした。ただ、黙っているだけ。
そんな感じだったので、高3のはじめくらいかなぁ、自分の希望を何も言わない娘に痺れを切らした父が「大学行きたかったら行っていい」と言ってきたのです。私は「やった!!!」とばかりに大学進学を決意。
ただ、成績が振るわないので、国公立は無理です。かといって浪人して予備校に行くような金もないと思っていましたので、なんとしても現役で受からないといけない。そう考えて、自分の興味と学力を見極めた上で家政系の私立1校に志望校を決めたのですが、そうしたらまた母親から「国公立にしなさい!」というダメ出しが入ります。
ただねぇ、それを高校3年の初夏とかに言われても。はっきり言って無理です。国公立を目指すには、5教科まんべんなくできないと無理です。何でそういう事はもっと早く言わないのかうちの母親は、と、かなりむかつきました。そういうのは高校に入った時点で「卒業後は国公立の大学か、就職の2択」と先に言ってくれないと困ります。
ルールを後出しにして、ダメダメ言うのは本当にずるいと思います。先に「OKの範囲」を全部提示してから、選ばせてほしいと思うのです。

余談ですが、我が家は「金がない」と言いながら、高校在学中のアルバイトは父親に禁止されていました。学校でも一応禁止だったのかなぁ?でもうちの学校はそこまで厳しくなかったんです。服装も、制服はあるけど、冬のセーターとかは指定がないし、鞄も自由。パーマかけている子もいれば、化粧している子もいたくらいですから。もちろんルーズソックスも全然おとがめなしだったと思います。みんな履いていたので(ちなみに私はルーズソックスも履かず、スカート丈も標準の、見た目いたってまじめ風の女子高生でした。このあたりの話はまた別で)。

そんな感じだったので、「高校在学中にがっつりアルバイトをして、自分で進学費用をためておく」も無理でした。

それで結局、国公立は前期後期それぞれ1校ずつ選び、私立は本命1校、合計3校受験しました(なんか、あとから私立もう1校くらい願書出したような記憶もありますが・・・ちょっとうろ覚え)。

私の学校選びの方法を参考までに書いておきますと、

本命の私立→とにかく現役合格しないといけないので(落ちたら就職しろとか言われそうだったので)受験科目が少なく、得意(というかまだましだった)の化学か生物、プラス国語の現代文のみでいけそうなところをいくつか選択。その中で、興味のある学科に決めた、という感じです。
(なんで家政科なのに化学か生物で受験できたのかはよくわからない)
ちなみにセンター試験利用ができるところでした。

国公立→記念受験になるのがほぼ確実だったのですが、それでも一応、前期は本命の私立と似たような学科のところ、後期は、万一受かったら、将来、中学の理科教師にでもなれそうなところを選びました。

結果を言うと、国公立全滅(当たり前)、本命私立は、なんと受かってしまったので、無事、現役で女子大生になることができました。

さて。私が大学進学した目的は、一言で言えば「遊びたかったから」でした。うちは父親が厳しく、「20歳になるまでは親の言うことに従え」ということで、かなり自由が制限されていました。この話は別記事にしますが、20歳になったら好き勝手していい、とは常々言われていたので、20歳になったら思う存分遊ぶために、遊ぶ時間確保のために進学したようなものです。
(高卒で就職したら、多分20歳になっても遊べないだろなと思ったから)
大学生になってしまえば、20歳になった時はまだ大学生。留年せず卒業しても、2年は遊べる。そう思ったのですね。

それで大学1、2年生の時は、かなり授業を詰めて、単位をたくさん取りました。後々遊ぶ時間の確保のためです。笑。
この頃、一応家庭科の教員免許を取るつもりではいましたので(教師になる気はさらさらなかったのですが)、教員免許を取るためには必修、となっていた科目を中心に選択しました。

しかし、3年になったあたりから、異変が起こります。
(これ書くと長くなりすぎるので今回省略、別記事で)
2年生までは順調に単位を取得していたのに、3年になると単位を落としまくります。
ただ救いだったのは、うちの学校は、当時、「資格等を取るつもりがなければ、必修科目が1つもない、最終的に単位さえ足りていれば卒業できる。卒業制作(or卒論)も必修ではない」という、きわめて緩い学校でしたので、「教員免許をあきらめる」ことで、単位だけ満たして4年で卒業することを目指すという風に自分の中で方針転換しました(留年する金がないのはわかっていました)。

それで卒業制作もやらず、卒論も書かず、何なら卒業後の進路も決めずに、とりあえずは4年で卒業したのです。

その後は、フリーターとなり、職を転々として今に至る、という感じです。
受験の話ばかり書いていて、肝心の学生生活の中身がアレですが、今回は学歴と学力、の話なので、学生生活の部分は大幅カットで書き上げてみました。

要するに私の高校大学時代の学力というのは、たいしたことなかった、ということです。

それもこれも、中学までは「ほぼ何もしなくても学校のテストができていた」状態だったことが原因、と私は思っています。

そのうち改めて、高校大学時代の学生生活の話、プラスアルファ、を書きたいと思っています。

発達障害者が少しでも生きやすくなりそうな情報(本、ネットの有料記事等)の購入費用に充てますのでよろしくお願いします★