じぶん研究所 15.私の学歴と学力 前編

職歴の話は、ずうっと前にこちらの記事でさら~っと書いていましたが、そういえば学歴のほうはちゃんと書いてなかったな、と思ったので、今日は、私の学歴と学力についての話でも書いておこうと思います。

大学を卒業したのが2000年なので、もうずいぶん前の話なので、思い出しながら書いていますけれど、うろ覚えなところも結構あります。

では、いきます。

私は、幼いころは母親が専業主婦でしたので、保育園ではなく幼稚園に通っていた人です。それも私立の幼稚園。年中さんからでしたけど。

家からは幼稚園バスに乗って行っていましたね。
でもなんか私は昔から車酔いする子でしたし、よく鼻血出す子でしたし、多分先生は大変だったと思います。

覚えているのは、園庭にあるいちょうの木が、秋になると一斉に実を付けるのでめちゃくちゃ臭かったということと(これで銀杏が嫌いになりましたw)、鉄棒から落っこったことがある、ということ。

あと、幼稚園、ってお勉強も少しするので、ひらがなの練習とかやっていたように思います。

余談ですが、我が家は私が幼稚園の時に妹が生まれているので(学年で5歳違います)、幼稚園の時は父方の祖母が福島からうちに来て、いろいろ手伝ってくれていたように思います。祖母と写っている写真が確かあったはず(物に埋まっててクローゼットのどこにあるかわからないけど)。
なお当時(っていうかその後私が社会人になって家を出るまでずっと)6畳2間の木造アパート暮らしでした。当時父親が毎晩家にいたかの記憶が定かではないですが(仕事の関係)、残っている写真をもとに考えたら「6畳2間に大人2~3人と幼稚園児と乳飲み子」がいたということになります。
私立の幼稚園に行っていた割に、そんなに裕福ではない暮らしだったことは確かです。

その割に、家にも学習玩具がいくつかあって、なんか、うちの親は、お金がないなりにも、教育には熱心?だったのかもしれません。
覚えているのは、ひらがなつみきと、なんかボタンを押すと答えがわかる掛け算のおもちゃ(キーボードみたいなボタンが並んでてそこに1×1とか2×2とか書いてあって、それを押すと答えが見える的なやつ)があったことですかね・・・

続いて小学校。ふつうの公立の小学校に通っていました。

忘れ物の女王だったことは前も書いたと思うのですけど(こちら)、テストはできたんですよ、どういうわけか。
普通に95点とかとれちゃう。
でもうちはお金がなかったので、塾なんていっていませんでしたし、習い事も小学校5年生の終わりまでは、していませんでした。
でもたぶんどの教科も、テストの点はよかった気がします。

しかしながら、うちの親(特に母親)はですね、テストは「100点取ってくるのが当たり前」の考え方の人でした。

1問5点の問題に1つだけ×がついて、95点というテストを持って帰れば

「これさえ合っていれば100点だったのにねぇ」

と言ってくる人でした。

だから成績が良くて褒められた、っていうのがあまり記憶にありません。
だって100点取れて当たり前なんですから。

ちなみに国語、算数、理科、社会といった教科は割と成績良かったはずなのですが、副教科(音楽、体育、家庭科、図工)辺りはそんなにできた方ではなかったですね。特に体育は散々でした。(下記参照↓)

音楽は、クラシックにはまるで興味がもてない上に、歌を歌うのもあんまり好きじゃなかったという。しかもオンチでしたし、リズム感もなかったですし。
また、リコーダーの授業では手先の不器用さが全開で、穴の押さえ方がちゃんとできていないせいで、低いドの音はいつも「ピー」っていう高い音が出てしまっていました。

図工もそうですね、やはり手先の不器用さがあったので、糸ノコで木を切るときとかも普通に線の通りに切れなかったりしましたし、絵もへたくそ。
おまけに色の感覚がちょっとおかしかったのか?(色覚異常ということではなかったんですけど)自分が色塗った作品について、ほかの子にからかわれたりしたことがあったような記憶が。

ただ幸いにも親も「副教科はどうでもいい、主要4教科さえできていれば」という感じの人でした。
(だからなのかもしれないけど、子供のころ親と美術館や博物館、音楽のコンサートとかそういうの行った記憶が全然ないです。動物園と水族館くらいはありましたが)

また、外遊びを本当にしない子でしたし(その話はまたいずれ)、習い事も私が小学校6年生の時に妹が小学校1年生になって、妹をそろばん塾に入れる時に私もついでに入れられた、というそれだけしかなかったんです。
そろばんの先生も驚いていましたね、小6から入ってくる子なんてなかなかいませんよ、遅すぎです。ふつうは、だいたい小学校低学年のうちに始める子が多いし、早い子は幼稚園年長さんくらいから始めています。
そのせいなのか何なのか、私は「暗算」が苦手でした。そのうえ手先が不器用なので先生からはよく「そろばんの球をガチャガチャはじいている」みたいなことを言われていたような気がします。
それでも一応習い始めて1年で全珠連の3級とりました。でもそこから2級とれるまでがかなり長かったです。最終的には(私は大学生までずっとそこのそろばん塾にいたのですが)全珠連の準段(初段の下)で終わりました。
私は暗算が壊滅的だったので、伝票、開法(√の計算ですね)、応用計算で頑張りました。
もう今じゃ開法のやり方なんて記憶にないですけど・・・

話がそれました。元に戻して、中学校の時の話をしますね。

中学校も、公立でしたが、複数の小学校から生徒が集まってきていたので、入学式の前に「クラス分けのテスト」ってのがあったんですよ。
それでテストを受けて、その成績をもとにクラス分けをしたようなんですけどね。
入学してからその成績(点数と学年順位)が渡された記憶があるのですけど、そこに「1」って書いてあった記憶があるのです。
つまり学年1位(自分の記憶違いでなければ)。

ただ、私の学校の成績って、このころがピークだったように思います。

その後は定期テストで「クラス1位」すら取れなかったように記憶していますから。
クラス順位が発表になると、たいてい私の上には男子が数人いたように思います。
でも女子のなかでは成績良かったですからね、テストの時は出席番号順に座らされて、テストを受けていたような気がするんですけど(それで1列ごとに男子の列、女子の列が交互)、よく隣の席の男子からカンニングされていました。笑。しかも私自身も断るでもなく、先生に見つからないように見せたりしてましたしね。たまに、「わざと間違えた答え」を書いて、見せてから、時間終了間際に正しい答えに訂正して出したりね。そういうこともしていました。笑。

そして中学時代も相変わらず体育はできないのですが、主要5教科でも得意不得意がはっきりしだします。どういうわけか私は社会が苦手で、興味も持てない子でしたので、ほかの4教科に比べて社会の点数がいつも悪かった記憶があります。
その代わり理科は得意でした。当時の理科の先生が、授業中「授業に関係のない面白い話」ばっかりしていて授業が全然進まなく、定期テスト前になって駆け足で授業をやるというスタイルだったんですが、それでもそこそこの点が取れていましたからね。得意だったんでしょう。

あ、そういえば、いつだったか、うちの父親が「通知表(5段階評価でした)の5の数×5000円くれる」といったことがありましてですね、なんと私はそのとき9教科中6教科で5を取りまして、見事3万円ゲットした記憶があります。私はそれで念願のラジカセ(Wラジカセ、CDなしのやつでした)を買ったように覚えています。

・・・そしてこの後、高校受験を経て進学、さらに大学受験して大学進学、という話になっていくんですけど、ちょっと長くなりすぎたので続きは次回に回します。




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