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自分語りpart3

昔は良かったと思うばかりではありませんけれど、過去を振り返って自分の棚卸しをすることが、脳内の断捨離にもなるのではないかと考えて、そのツールとしてnoteを使わせていただいております。
このようなメディアを作ってくださり、感謝です。
お読みいただいているあなたにも、心から感謝です。

肌感覚としての自分の脳内の棚卸しなので、多少記憶が曖昧なところもあるかと思いますが、緩やかなお気持ちでお読みいただけるとさいわいです。

1979年といえば、バブルが開花する直前の、土壌が柔らかくなって日本が活気付いてきた頃でしょうか。
景気は人の気が大きく左右すると言われています。あの頃は、右肩上がりの経済成長がこのままずっと続くと思っていたし、一部上場の大企業に就職すれば、一生安泰だと日本人全員が確信を持っていたと思います。

そんな1979年に、私はプー太郎でした。
大学に入ったものの、諸般の事情で中退して、父親の会社でお茶汲みをして、お小遣い程度のお給料をもらっていました。
成人式を欠席したので、その代わりとして、頼んでもいないのに、両親からアメリカ旅行をプレゼントしてもらいました。
また行きたいなアメリカ、と思っていたある日、家で夕食後にテレビを観ていました。
テレビでは、アメリカの草原で日本人数人がクイズをしていました。
これ、本当にアメリカでやっているの?と私が聞くと、父はそうだと答えました。
じゃあ、私来年これに出るわ。と、自然に口からそんな言葉が出ました。
そして翌1980年、私はそのクイズ番組で優勝しました。
当時30%を超える視聴率でしたから、街を歩いていても電車に乗っていても、声をかけられ、当時はのんびりしていたので、駅前の交番で私の家を聞いて、家まで訪ねてきた中学生たちもいました。

大学を中退して、人生の入り口で路頭に迷っていた私が、大きな転機を掴んだ出来事でした。
優勝賞品が一人乗りの組み立て式飛行機で、その飛行機を航空雑誌が取材して、出来上がった雑誌が自宅に届きました。
その雑誌に、日本航空の客室乗務員既卒採用の記事が掲載されていました。
大学を中退していても受験ができるのだと知り、締切間近でしたが、これを受けようと即決しました。
それから17年間、途中地上勤務をしたり産休を経たりしながらも、良い時代をCAとして過ごせたと思います。

ひょんなきっかけでクイズに出て、その枝分かれとして、憧れていたというわけでもないCAとして、世界を見ることができたことは、私の思考感覚感性に大きな影響を与えたはずです。
異文化に触れること、視点を変えること、時空を超えることは、それまでの私の小さな半径での生活を大きく変えました。
使えるお金も大きな金額になり、時はまさにバブル全盛期でもあり、日本は世界一の経済大国になろうとしていた頃でもありました。

今がいちばんしあわせだと、現在の私は思っていますが、あの頃はしあわせというよりは欲望が満たされることを追っていたという感覚でしょうか。
満たされない感覚を綴った森瑤子の小説が大好きだったのも、どんなに物質に恵まれても、人はそれで幸福になれるわけではないというテーマが、通奏低音のように流れていたからだと思います。

森瑤子と片岡義男の小説は、全部読んだと言ってもいいくらいだと思います。批判しているのではなくて、主人公の名前が違うくらいで、ほとんどのストーリーのシチュエーションが同じであったことも、万年時差ボケだったあの頃の私には読みやすく、世相を反映したお洒落な雰囲気も味わえて、角川文庫の赤い背表紙をずらりと本棚に並べて悦に入っていました。

記憶のままに書いていると、どんどん脇道に逸れていきます。ご容赦くださいませ。

森瑤子が好きだったのは、なんとなく母のイメージを重ねていたところもあったからかもしれません。
見栄っ張りで、神経質で、プライドが高くて、おしゃれで、いつでもどこでも輪の中心にいるような感じ。
本当の人物像はわかりませんけれど、小説から導き出した私の勝手なイメージです。

母のことはまた後日、書きたいと思います。
今日も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。







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