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「宿題あとのばし」の癖は消えないどころか悪化する一方

卒論制作のプロポーザル提出まであと1週間弱。こういうタイミングで行くTSUTAYAと図書館は本当によくない。でも行く。知ってるのに行く。

この3倍くらいの積読の本と論文もあるし、3週間で課題制作してエッセイもかかなきゃいけないのに...  

その制限がかえって甘美な囁き。コンサル時代の徹夜スピリットが抜けず、追い詰められたらなんとかなるっしょ と思ってるのもよくない。いや、そもそも小学生の頃から、宿題を後伸ばしする癖が1mmもなおってない。

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元々TSUTAYAには「アルファヴィル」と「バリーリンドン」を、図書館には「20世紀の忘れ物―トワイライトの誘惑」を借りにいくという明確な目的があったんだ、うん。

ペルー・アマゾンにいる旦那に「温暖化すぎて住めなくなった2070年のデストピアから"If"で始まる環境主義的ユートピアのフィクション民族誌みたいなのを卒制でやろうかなあ」といったら、とりあえずアルファヴィルみとけって言われて。

大学時代の友人は、バリーリンドンが大好きだった。ボードレールは「こんなによくできた映画はないだろうし、これからもないだろう。だがなんの中で?想起の中ではなく、いや想起の中でさえなく、シュミレーションの中で」といった。と書いている論文を読んだ。それで猛烈に観たくなった。

バリーリンドンとアルファヴィル。キューブリックとゴダール。

「ドラマ」コーナーにあるはずのバリーリンドンを探していたら、その途中に「モダンタイムス」。あっ、名作発掘コーナーにカサヴェテスもある!で「アメリカの影」。

図書館に借りに行った「20世紀の忘れ物」は、お取り寄せしないとありません、と言われて。手続きを待つ合間に、佐治さんから繋がる身体と知覚の本と山極さんを手繰り寄せる。

ああ、隙間時間に出会うレジ前商品的な「出会うはずじゃなかったモノたち」。そうして、インプットがどんどん増えていく。

しかもしれっと空海。日本にいて身体を考えだすと、空海と世阿弥は外せない。いやしかし... そうして、インプットがどんどん増えていく。

山極さんと中沢さんの対談本の帯には、こう書かれている。「人間は動物にも植物にもなれる」。

ある晩、ジャングルでアヤワスカの酔いが廻りすぎたとき、植物になるビジョンをみたことがある。全身を覆う様にツタが生えてきて、もう「わたし」は死んでいるんだと思って、怖くて、シャーマンに「怖いよう!植物になっていく!」って助けを求めたら、笑いながら「Muy Bien(いいじゃん!)」って言われて、逆に覚醒した。この帯をみながら、そんなことを思い出していた。

もっというと、植物になる経験をジャングルで何度かしたせいか、ずっと身体と自然のことを考えている。自然とは「どこに」あるのか?「都市」には自然がないのか?人間(身体)は自然なのか?

「人新世」というバズワードにすら、自然の究極のコモディティ化を感じるひねくれもののわたしは、

アマゾンの先住民のような自然と身体が高度に溶け合い、引き起こし/ 引き起こされる身体観にひかれ続けている。いや、そもそも日本には「自然(Nature)」という概念はあったのだろうか?

コロナによる個人的な恩恵は、じぶんの「身体性」に気づかされたことで、つまり、わたしの「ココロ」は、自然の中にあるのだと思った。

それは、たえまなく聞こえてくるカフェのおしゃべり。電車の音。自動車の音。鳥や虫たちの声。蒸し暑さ。肌を通り過ぎる風。その他諸々。

わたしのココロは、これらの自然のなかに溶け込んでいて、引き起こし/引き起こされ、どこまでがわたしのココロで、どこからが自然ということは難しい。アマゾンで植物をとるときは、もっと自然と身体を分つことが難しい。

この自然ー身体をめぐる雑多な思考を視覚化するために、先ずはゴダールとキューブリックから。

とことん後伸ばし、いや道草しながらどこまでも。

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