見出し画像

ケア軽視社会への疑問

近代化がもたらしたもの

以前note記事で文明は合理性の追求の面があると書いた。便利で快適、すぐに、簡単に、分かりやすく、というフレーズは様々な場面(特に広告)で目にするだろう。

もちろんその恩恵を享受しているので全面否定するつもりはないが、人間というのは合理的ではない要素も多分に内包している

個人的にそれを実感しているのが新型コロナの流行だ。世の中はリモートワークやオンライン授業と色々動いたが、なかなか定着しないままデルタ株の流行を迎えてしまった。

7月頃から医療体制も限界を超えてしまい、本来なら入院治療すべき状況なのに自宅での療養を強いられた。

幸い第5波のピークは過ぎたが、この夏の状況を見て改めて病院は治療に特化した施設であることと暮らしは多様な側面があることを実感した。

身も蓋もないが、ある意味近代化というのは暮らしの場から仕事、教育、治療、といった要素を切り離して専門性の向上や効率化を図り、それによって国力を高めた仕組みと言えよう。

その過程で女性は家庭で家族や地域の弱者をケアをする役割を今まで以上に強いられ、現在のジェンダー格差へとつながっていった。

つまり、近代から現代の社会は家庭や地域社会から労働(とその準備期間)を分断・合理化したことで急成長を遂げたが、今その歪みが顕在化していると言えるのかもしれない。

ケアを軽視したツケをどう贖うのか?

ジェンダーギャップの問題でよく指摘されるのが近代化で発展した男性中心の場所には子ども、女性、障害者、老人がいないこととされている。実際ニュースなどの映像を見ていると政治や経済の場面は男性ばかりが映っていることが珍しくない。

職業選択も男女差は大きい。一般的にケアを担当する職業は女性が担うことが多く、待遇もあまりよくない。そして、このような業種でも責任者になるととたんに男性ばかりになっていることが往々にして見られる。

ケアに関する政策を観察しているとなんとなく透けて見えるのがケアへの軽視だ。より正確に表現すればトップの人達が掲げる理念は素晴らしいが、それを実行するための手間と人手を少なく見込むため現場では悲鳴が上がり、結果として現場スタッフも利用する人たちも不利益を被るという状況が起きている。問題の本質はケアに人と資金を回せていないということなのだろう。

意外と見落とされているが、ケアをされる人数<ケアする人数でなければ、長期的なケアはどこかで行き詰まる。ケアする立場を経験してみると「人手が足りない!」と叫びたくなることは誰しも一度はあるだろう。

しかもただ人がいればいいという話ではない。他者へのケアの知識と実行スキルを持っている(つまり高度な専門性がある)人が必要なのだ。

もちろんテクノロジーの発展で今までなら人がしていたことを機械化・自動化できることがあるかもしれない。しかし、機械のメンテナンスにも人が必要なので、結局現代社会は人にもインフラにも高度なケアとそれを回すための能力が必要だし、一人の人が何役もこなすマルチタスクが求められる。

ダイバーシティ=高度なケア調整社会へ

社会を変えるための意識として多様性ということばが取り上げられている。様々な人が活躍できるよう社会を変えていこうという動きだが、ここで欠かせないのが誰もがケアへの意識を持つことだと私は考えている。

これからの少子高齢社会は本来ならより多くの、そして高い専門技術を持つケア要員が必要なはずだ。しかし、実際はケアへの余裕がなくなり、ケアの貧困化・弱体化を招いている。介護保険も医療制度も慢性的な人手不足で制度の見直しは必至だろう。

今では平均寿命が伸び、核家族化や女性の就労が進むことで保育や介護もだんだん家庭の中から家族以外のサービスも利用するという流れになってきた。しかし、利用するには様々な手続きを経る必要があり、本当に使いたい時にすぐ利用できる保証はない。今回のコロナ禍でもそれが浮き彫りになった。

根本的な問題として資本主義的な価値観とケアは利益相反しやすい。それはお金という量の多寡でしか測れない尺度(媒介)の限界なのかもと感じている。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?