つまるところ、人生なんて単純だ
好きなことだけして生きていく。
こんな耳障りの良いフレーズを聞いて、心動かされない人なんているんだろうか。
そんなことできるわけがない!と、決めてかかる人もいるんじゃないかと思う。
わたしの人生を振り返ってみたい。
子どもの頃は好きなことができなかった
これはいま思えばあたりまえ。子どもは親に育てられる。よほど寛容な親でない限り、親の思う通りに育てようとするのだと思う。とくにわたしは、長女だったから。
好きで始めたスポーツ少年団のバレーボールも、いつしか嫌いになっていった。先生が厳しかったから。そして、なにかおかしいと子ども心にも感じ取っていたのかもしれない。一部のメンバーと「ソリ」が合わなかった。
陰口をたたき、ひとをあざ笑う。不愉快なひとたち。
ある日、母がいきなり「バレーボールやめてもいいよ」っていってきた。あんなに辞めたいといってもやめさせてくれなかったのに、どうして?とずっと疑問だったけれど、その疑問は、おとなになったある日、解けた。
ソリが合わなかったレギュラー陣の親が、先生にワイロを渡していたのだ。だからヘタなくせしてレギュラーだったんだ。腐ってる。この先生も、市役所勤務の公務員なのにね。
ほかにも、エレクトーンを10年ほど習っていた。いや、習っていたって言っていいのかな。本当に嫌いで、ただただ通わされていた。
エレクトーンを始めた理由は、母がピアノが弾きたかったから習わせたかった。ただそれだけ。よくある話。
高校時代から始まった「好きなことはがんばる」こと
田舎は受験できる高校が少ない。わたしの地元は、公立高校がたったの3校だ。実家は貧乏。きょうだいは4人。落ちるなんてありえない。絶対に受かるために、いちばんランクの低い高校を受験した。
正直、高校なんて行かなくてもいいと思ってた。
高校時代は、先輩のすすめもあって、「新聞部」に入部した。最初はハンドボール部に入っていたのだけど、帰宅時間が夜9時近くになるので、辞めた。
水泳部をつくろうと奔走して、校長先生にも掛け合ったけど、理由もなくNGだった。顧問になってくれる先生も見つけていたのに。
とりあえず新聞部に入って活動を始めた。これが案外おもしろい。文章を書き、先生に添削してもらい、またあらためて書き直す。
コンクールで受賞なんかしたり、リアルな新聞に掲載されたり。なんとなく、おもしろかったから、3年間ちゃんと続けた。副部長として。
文化祭では、わが母校の有名人の先輩「山崎まさよし」の特集を組むために、顧問にたのみこんで山崎まさよしの恩師の連絡先を調べてもらい、直接電話を掛け、取材した。
当時は携帯電話なんて高校生が持てるわけもないから、10円と、テレフォンカードをいっぱい握りしめて、公衆電話からかけたのを覚えている。
山崎まさよし特集を組んで、文化祭で発表した。好評だった。楽しかった。わくわくした。わたし、こういう作業、好きなんや!と、ここで初めて思った。
好きなことをするのは、やっぱり楽しい。
行き着いた先で、パソコンを覚えた
就職活動をするのか、進学するのか。進路を決めなきゃいけない時期にきても、わたしは決め切れなかった。なにをしていいかわからなかったからだ。
大学なんて、行かない。なんでわざわざまだ勉強しなきゃいけないんだ。そう思ったから、推薦の話は断った。先生の苦肉の策だったのに。
母に促され、高卒でも入学できる産業技術学校という公立の専門学校に入学した。グラフィックデザインとは、ここで出会った。
でも、デザインは嫌いだった。わけがわからない。それよりも、パソコンをいじり倒したい。最初はひたすら文字打ちを練習し、ブラインドタッチをマスターした。
そのあとは、あらゆるショートカットキーを覚えた。ソフトの使い方もほかのひとより断然早くマスターした。だって、放課後いつも残って、パソコンばっかりいじっていたからね。
デザインセンスはあるけど、パソコンスキルはない友人たちのデザインを、ひたすらイラストレーターに起こしてデータ化していた。
好きだったから楽しかった。好きなことしかしていないのに、ありがたがられた。まぁ、それでよかった。デザインの成績は悪かったけれど。
会社は嫌いだけど、仕事は大好きだった
印刷会社にアルバイトとして入社した。金髪だったのに、よくもまぁ採用してくれたと思う。
当時の印刷会社は、まだまだデザイナーがパソコンを使えるレベルになかった。だけど、入稿はデータ化が完了していた。
だから、マッキントッシュのDTPオペレーターが重宝された。
デザイナーが作るデータは、ゴミばかり。ゴミといっても、デザインがゴミなわけではない。文字を打ち損じたもの、透明に残ったパス。文字化けしまくったデータ。無理難題なデータ作成依頼。
すべてにおいて、じぶんのなかの最速で仕上げていったので、わたしのところには急ぎの仕事ばかり回ってきた。
でも、よかった。好きだったから。それだけで、月90時間を超える残業にも耐えることができた。会社組織は嫌いだったけど、仕事は好きだった。
パソコンでモノを作る仕事は大好きだった。いまでも好き。
結局、好きなことを仕事にしていた。
ブロガー
ブロガーとして活動しはじめて長いけれど、本格的に好きなことだけを更新するようになったのは、3年前くらいだと思う。
最初は苦手だったお金の管理。だけど、結婚して夫の給料だけでやっていかなくてはならなくて。いろいろ調べて勉強した。
そのうち、お金のことを知るのが好きになった。おもしろくなった。だからいろんなことを考えて、勉強して、ブログにアウトプットしていった。
ファイナンシャルプランナーを取得したのも、信頼性が高まるという理由は後付けで、つまるところ、好きだからだ。
片付けは苦手だった。収納センスがないのも重々承知していた。だけど、このまま放置していたらゴミ屋敷になってしまう・・・という危機感から、片付け始め、それをまたブログにアウトプットしていった。
だんだんおもしろくなっていった。整理収納アドバイザー2級の講座を受けて、火がついた。整理収納、おもしろい。
これも信頼性が増すなんて、後付けの理由。つまるところ、好きになったから取りたいだけ。
好きなことだけして生きてきた
こうして人生を振り返ってみると、結局、好きなことしかしていない人生だったのだと思う。
会社でのキャリアだとか人生設計なんてなにもない。なにものにもなろうとせず、ただただじぶんを追求してきたのだ、と。
いや、裏を返せば、好きなことしかできなかった人生なのかもしれない。
ひとは、簡単にしがらみを作ってしまえる。じぶんでじぶんを縛ることなんて、とても容易だ。
好きなことだけして生きていくなんて、甘ったれたことをいうな?そんなことできるわけないだろう?
きっと、そう感じるひとは多いのだと思う。だけど、好きなことしかできない人間もいる。そして、こうして生きている。
決められた人生を歩んでこなかった。キャリア設計、人生設計、そんなものはどうでもよかった。ただひたすらに好きなことしかできない、不器用な人生を歩んできた。
振り返ってみると、わたしは、幸せだった。
こんなわたしを受け入れてくれるひとがいたから、好きなことばかりしていても、なんとかなってきたんだ。もちろん、失敗もしたし、怒られたこともいっぱいあるけれど。
どうだろう。
好きなことだけして生きていくというのは、果たしてひとが夢見て憧れるようなものなのだろうか。つらいことは、もちろんある。好きなことだけして生きているから、つらいことなんてないということは、絶対にない。嫌な思いもするし、泣いたりもする。
幸せでも、つらいことはあるんだよ。家に帰ったら、きっと子どもが部屋を散らかしている。夫がぐうたら寝そべっている。でも、それがあなたの幸せなんだ。
心屋仁之助さんの講演会で、ものすごく印象に残った言葉だ。そう、これがわたしの幸せ。現実のなかに生きよう。現実のなかに幸せを見出そう。
好きなことだけして生きていってもいい。というか、生きていけるから。そんなに難しくないよ。人生あまくていい。あまい方がいい。
好きなことだけして生きていくなんてできるわけがない!と思うのは、もったいない。好きなことをして生きていけばいいと思う。いつまでイジけて拗ねた考え方をしていたい?
会社員だろうがなんだろうが、それは関係ない。わたしは会社に勤めていたときも、好きなことしかしていなかった。
わたしは、わたしの軸でしか生きられない、単純で不器用な生き物でよかったと思う。幸せのハードルが低いから、いつも結構、幸せだ。
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