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坂本夏子作品について

先日、Kanda & Oliveiraに坂本夏子「TILES | SIGNALS — UNEXPECTED DIMENSIONS」を観に行った。
作品を見ていたらパープルームの初期のことを色々思い出した。
坂本作品を初めて見たのは2014年の夏、パープルームのアトリエだった。クーラーがなく昼間はめちゃくちゃ蒸し暑かった。
坂本さんは絵の途中経過を他人に見られたくないらしく、昼間、私たちパープルーム予備校生やゲスト作家がアトリエで制作している時はいつもキャンバスを裏返しにして置いておき、夜に制作していた。ただ壁に接する部分の絵の具が乾いていない時は表を向いている時もあった。

2014年当時のパープルーム予備校、アトリエのようす


この時、坂本さんは4枚のF130号キャンバスを縦にして交互に加筆していた。4作品は春夏秋冬というテーマのもと、それぞれ別の絵画的な実験がなされていた。この作品はARATANIURANOで開催した『坂本夏子の世界展』で発表された。
 
突然だが皆さんはもし「風景のなかにいる人や動物を描いて」と言われた時、どこから描くだろうか。生きているものを1番に描き始め、背景はそこそこに主人公ばかりついついこだわって描いてしまう人が多いのではないだろうか。
坂本作品はそういった多くの人がやってしまいがちな絵の描き方から意識的に遠ざかっている。
 
「坂本夏子の世界展」のメイン作品4点のうちの1点《夏(犬と坂道)》について考えてみたい。

坂本夏子 《夏(犬と坂道)》  2014年 キャンバスに油彩  h.194.0 x w.162.0 cm
みそにこみおでん蔵
(2016年、いわきで開催した展覧会『X会とパープルーム』で展示された時の写真)

数匹の犬が坂道を登っているようすを坂の正面から捉えた絵だ。この絵には色々なズレがある。このズレを2つに分けて考えてみよう。1つ目はモチーフ自体のズレ。2つ目はモチーフと絵の具のタッチのズレだ。
 
 
1つ目、モチーフ自体のズレ。
 
坂道を真正面から見た構図はとても描きづらい。同じような構図の作品の例をあげると、岸田劉生《道路と土手と塀(切通之写生)》があるが、この絵は左側に白い石垣を描くことで坂道であることを表している。
しかし坂本作品にはこういったガイドとなるものがないため坂道っぽさを出すのが難しいのだ。
しかしそれがないからこそ坂本さんは現実には存在しない亜空間のような坂道を描けた。坂本さんの絵のなかの犬と坂道は見ている角度がところどころ違う。斜面はタッチの角度によって断崖絶壁のようにしたり、緩やかなように見せたり場所によって描き方を変えている。犬は上からの視点や真横からの視点など色々な角度で描かれている。色も部分によってコントラストの強弱を変えており、くっきりとしたシルエットの犬もいれば、地面に半分溶け込んでいる淡い犬もいる。それに影が落ちている犬もいれば全く影のない犬もいる。
このごちゃごちゃとした犬と坂道は辻褄が絵画上で合わなくならないように工夫されている。坂本さんがもし岸田劉生のように絵の具のタッチを全て絵画空間に擬態するように乗せていたらこんな描き方はできなかったはずだ。
この時坂本さんは絵画空間上のどこに絵の具を乗せるかという思考のうえで、それまでの洋画家たちとは別次元の部分に触れていたと言える。
 
 
2つ目、モチーフと絵の具のタッチのズレ。
 
タッチの粗密がモチーフが本来持っている特徴からズレているのだ。
坂本さんは主に絵の具を“ねじりつけ”て描く。ねじりつけとは坂本さんがよく使う何色かの原色と白色を筆にマーブル状にのっけて画面にねじりつけるタッチのことだ。
《夏(犬と坂道)》では、具体的なモチーフを描いているが、そのタッチの塊はモチーフの特性やシルエットからズレている。地面を大きいタッチを使って描いていたらそのまま同じようなタッチで隣り合う犬を描いたり、地面の一部を透明色で染めたら犬にも透明色をかけたり、犬が1発描きで終わるところは隣り合う地面も1回しか筆で触らないようにする。何回も小さなタッチを重ねてしつこく描いた部分は犬も地面も執拗に描いている。
これは意識していても、実行するのは意外に難しい。
この頃の坂本作品は絵画空間と絵画平面状に乗った絵の具が同時に存在するのだということを鑑賞者に意識させようとしていた。そのために描かれたものがギリギリのところで具体性を保つようにしていて、人間の知覚能力の限界を試しているとも言えるのかもしれない。
さらに言うとこのズレはもしかしたら梅津さんから影響を受けているのかもしれない。
ただ、梅津さんは坂本さんと違って分厚い絵の具をあまり使わない。
坂本さんが、絵の具の厚みレベル2〜10まで使っていると仮定すると、梅津さんは厚みレベル1〜2までの間を使っている。坂本さんの方が大胆に絵の具の粘度を変化させて扱えるようにルール設定しているのだ。
梅津庸一《智・感・情・A》を例にあげてみよう。この絵は薄い絵の具の執拗な重なりで描かれている。

梅津庸一《智・感・情・A》2012-2014年 油彩/布、パネル 4点組:各180.6×99.8cm
東京都現代美術館蔵
梅津庸一《智・感・情・A》(裏側)2012-2014年 油彩/布、パネル 4点組:各180.6×99.8cm
東京都現代美術館蔵


この作品の下敷きになった黒田清輝《智・感・情》はひたすら女性の身体の肉感を描写し、背景には金箔を張ってある。対して梅津作品は背景も身体も等価に描こうとしている。というかむしろ背景の方がこだわって何度も絵の具を重ねている。
背景の部分を見るとまるで顕微鏡で覗いた微生物のように、色の点たちがふよふよ漂っているように見える。そのなかで梅津さん自身の身体は微生物の集合体が生み出した実態のないホログラムのようでもある。
 

話が逸れてしまった。
坂本さんは絵画でしか表すことのできない世界を描きたいと語る。それは「坂本夏子の世界展」の4作品が最も実現していたのかもしれない。
 2014年ごろまでの坂本作品は物語性のレイヤーと空間をどのように描くかというレイヤーと絵の具のレイヤーがたがいちがいに複雑に絡み合っていた。
しかし最新作では、初期作からよく登場するねじりつけで描くタイルを、ロベール・ドローネーやヒルマ・アフ・クリントのような同心円状の形態や幾何学形と組み合わせるという謎の取り組みをしていた。物語性のある初期作から使い続けてきたねじりつけのタッチをそういうところで出すのはちょっと中途半端なように思った。描くモチーフが色と形だけになってしまった現在の作品は、ただ単に絵画平面状に絵の具が重なっているだけで、坂本さんの絵の具はかつてのきらめきを失っていた。
自分の取り組んでいた課題を見失って絵画に弾き返されているようだった。
現代において幾何学形態で絵を描く意味があるのか私にはわからない。
坂本夏子は具体的な主題でこそ、その能力が存分に発揮されると思う。
 
 
私は坂本さんよりも絵画への反射神経が鈍い。絵画戦闘力を測るスカウターがあったら、私の作品は2014年の坂本作品をまだ超えられていないと思う。
しかし坂本さんの作品の変遷について考えることで、自分の絵を考えることはできる。梅津さんと坂本さんによる共作は私のルーツでもある。

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