駅にいるやばいひと

   

 マグカップを持ったまま歩きまわる正午の街。人のいない住宅街。水色の優しい空、優しい光。春が本格的にやってきたって感じ。うちも洗濯をしたいな。裸足に、サイズが少し大きいスリッパでどこまで歩けるだろうか。スウェットのポケットに小銭がある、これでなんか買える。私にとっての朝が世間にとっての昼でもなんも構わないんだよべつに、太陽が昇っている間ならいつだって構わないはずだよ。でも私は実際、全然そうじゃない。午前中以外の全ての時間帯は行き遅れているような気がして焦燥感がしちゃう。

 こんないい日、こんな晴れていて暖かい日は競馬場にでも行きたいな。それか、知らない街ならどこでもいいかな。ポケットの200円じゃ入場料でおわっちゃうし、マグカップが邪魔だなぁ。乗ったことのない電車に乗りたい。そう思ってか無意識かわからないけど、最寄りの京阪電鉄の駅まできて、次に来る電車の時刻を眺めている。この場合は各駅停車のほうがいいよなって思う。

 びわ湖浜大津線に乗ってびわ湖に行きたい。電車から降りなければ初乗り運賃でいけるだろうか。窓から眺めるだけでもいい。いや、本当は湖畔を歩きたいものだ。キセルして、帰りはヒッチハイクか歩きで帰ればいけるか。

 春だし、まだ長袖を着なくちゃ寒いくらいの気温だし、マグカップはとても冷たくなっていた。中の緑茶はあと一口分くらい残っている。飲み干すと、とても冷たくて苦くてまずかった。空になったマグカップで、なぜかもう一度中のものを飲むふりをした。もうこぼれるものもないから、右手の人際指にひっかけてブラブラさせながらエスカレーターを降りて改札へ向かう。切符売り場で路線図を眺めている。お布団の中にいるときの優しい気持ちのまま外に出てきてしまって、私は最強だ。

 昔、始発の京阪で東福寺まで行ってそこから京都駅まで歩いたことがある。京都駅八条口から出る早朝便の長距離バスに乗る恋人を送るためだった。その頃はまだ京都に越してきたばかりで、土地勘がなかったから、ネットの言う通りにしたらそうなった。今思えばバスを使わないにしても、なんで七条駅からではなかったのだろう。(京都市内の移動は市バスを使う場合が多い。京阪沿線の駅で降りて京都駅まで歩くなら、七条駅からのほうがよっぽど近い。)とはいえ、東福寺からでもそんなに遠くはなかった。冬の夜明け前の東福寺駅はなんだか殺伐としているような気がした。暗かったし、さほどよく覚えていないけれど、駅を出てすぐのところになんかの工場があった。それと、道路の工事をしていた。デイリーヤマザキがあって、そこで肉まんを買って分けて食べながら歩き始めた。グーグルマップは私たちをよりマイナーな方向へと導いた。古い家が立ち並び、疎水が流れる道沿いをしばらく歩いたあと、路地のような細い通路のようなところを進んだ。そこを抜けると太い道路に出て、少し安心と思いきやまたすぐに入り組んだ住宅街の中へと案内された。しかし、わりと近くに京都タワーが見えていたから大きく間違ってはいないだろうと思えた。途中、砂利道のところがあって、その道に面している古い家の一つの玄関に明かりがついていた。私たちは「廃墟かと思った」などと失礼なことを話していた。進行方向の先のほうで、犬が吠える声がした。しっかりとした、太い声だった。私たちは、どこかの家の犬が吠えているのだろうと思ったので、その吠え声に特になんの反応もしなかった。吠え声が真横から聞こえる、つまりその犬のいるところに差し掛かったとき、二人とも悲鳴をあげた。その犬はかなり強そうな犬で、路地の暗闇に立っていた。間違いなく野犬だと思った。走って逃げたら追われる、追われたら逃げ切ることなど不可能だと思って、二人ともその場から動けなかった。絶対にその犬の目を見にないようにゆっくりと後ずさりした。しかし次の瞬間…! 路地にパッと明かりがついて勝手口のようなとこからおじさんが出てきた。暗くて見えなかっただけで、犬はリードで繋がれていた。暗闇の中で勝手口のドアは少し開いていて、おじさんがリードの端を握っていたのだ。私たちは大きな声で「なんだーよかったー」と言った。おじさんがキョトンとした顔をしていた。そして、一応道に迷うこともなく八条口についた。バスの発車まで少し時間があったので、なか卯に入った。二人は先ほどの犬の怖さついて話しまくった。二人ともが一瞬本当に心の底から怖かったのだということが、よくわかった。

 そんなに長い時間ではないはずだけど、私は切符売り場に立ち尽くしてそんなことを思い出してしまっていた。今度引っ越すならどういうところに住んで、どこに何をおいてそのうちはこんないいところで日当たりが良くて…ってことを考えているといつの間にかものすごく集中してしまっていて意識が遠くなっているときと同じくらいに集中していた。(どんなところに住みたいかを考えるのって楽しすぎて、ずっとそのことを、しかもとても綿密に考え続けちゃわないですか?)この時間、改札あたりの人もまばら。急に、私もおしゃれして都会へ通って社会的な生活に参加したくなった。こんないい日は、何したっていい。私は切符売り場から振り返って、真後ろにあるコンビニであの(・・)目の覚めるような強烈なピンクのパッケージのビールを買った。このピンクが大好きすぎる。ビールはカンから直接飲んで、マグカップはセレブが持っているなんにも入らない小さすぎるハンドバッグみたいに持っていた。


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