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今年は荒川放水路通水百周年 荒川放水路が水害を防いでいます

令和6年10月12日は、荒川放水路通水百周年という記念すべき日です。
明治43年の関東大水害を受け、周辺地域から荒川改修の要望が高まり、政府は荒川放水路の建設を決定します。

足立史談 677号

荒川放水路

またまた、私の若いころは です。
「荒川放水路」ってしっかり言っていました。教科書に載っていました。
最近は、「荒川」になっているような気がします。

「荒川放水路」ができたんだよ
「新しい川」ができたんだよ
って強調していたのだと思います。

し江戸川区のが、分かりやすいです。上記から図を貼り付けます。

足立区の新田、宮城・小台、千住の3地区が二つの川に挟まれて分断されました。

【放水路建設への反対】
流路は様々な案がありましたが、最終的に現在の流路となり、放水路の完成によって千住地域と宮城・小台地域が化繊に挟まれた状態になりました。
(中略)
明治45年千住町長が内務省へ陳情書
「千住は水害のために滅びるのではなく、治水対策のために滅びる」と。
水運・陸運が分断され商業が衰退してしまうと懸念したのでしょう。

空前の大工事と、多くの人々の葛藤の末に生まれた放水路は、現在も水害の惨禍から人々を守り続けています。

足立史談 第677号

荒川放水路が無かったら


地域への影響 花の話

野新田の桜草が有名になった訳

 それでは、どうして野新田の桜草が有名になったかを述べましょう。一つには、花暦類や旅行案内書による文献の紹介があります。二つには、毎年春になると、新田周辺に行楽のコースが、にわかに形成されたからです。すなわち、飛鳥山や荒川堤の桜、西新井大師へのお参り(昔の四月二十一日は、近郷近在の参詣人で、大変なにぎわいでした)、鹿浜の虫切りへの治療(桜草狩りは、子供連れの行楽に適しており、特に虫切りへ行った子供の気分転かんに最適であった)がそれで、それらの名所の近くにあった野新田の桜草は、上記と共存共栄の関係を保ち、有名になったのです。これは荒川堤の五色桜の頃の本文の末尾の野新田の桜草が書かれた文献が多い事からも、証明できるのではないかと思います。

新田と桜草

地域産業への影響は分かりませんが、花の話からアプローチできました。


西新井大師、昔は江戸から行きやすかったかも

隅田川を渡れば
または、隅田川を舟で登って来れば(上り下りのふなびとが→上げ潮で)

江戸からの信仰と行楽のコース
春には江北の桜や新田の桜草を道中で見ながらお参りしたかもしれません

西新井大師は女人参詣の名所

男は川崎大師へ

正式に言えば、五智山遍照院総持寺という真言宗の寺で、総本山は奈良の長谷寺になる。寺伝によれば天長三年(826)に弘法大師の創建という。空海52歳の頃のことだろう。当地に立ち寄った弘法大師はみずから十一面観音菩薩像を彫り、悪疫に悩む人たちのために祈った。すると今まで枯れていた井戸から清水が湧き、その水によって疫病はついえたという。その井戸が祈りの場の西にあったことから「西新井」の地名が生まれたともいう。

江戸東京の寺社609を歩く 下町・東郊編(PHP新書)P319

空海(弘法大師)が関東巡錫の途中、西新井を通った際に、本尊である観音菩薩の霊託を聞き、本尊の十一面観音を彫り天長3年(826年)に寺院を建立したことに始まるとされる。

川崎大師などと共に「関東三大師」の一つに数えられ、毎年の正月には初詣の参拝客で賑わう。

境内には弘法大師によってもたらされたとされる加持水の井戸がある。この井戸が本堂の西側に所在することが当地の地名である西新井の名の由来とされている[2]。中野区にある新井薬師と同じ真言宗豊山派の寺院。

ウィキペディア

足立区の地域手話で「西新井」は、「西」「きれい」「井」と表します。
※ 新しいではなく「きれい」 弘法大師がきれいな水を掘り当てて民を救ったからかなと。手話ってスゴイ。  ※は私見です

牡丹の花がきれいです


六阿弥陀詣

江戸の女性たちが、お出かけして良い
六阿弥陀参りの日があった

恵明寺の六阿弥陀仏は、延命寺阿弥陀堂(江北2-46)にあったもので、明治初期に延命寺が廃寺となったため当寺が管理することになったものの、大正時代の荒川放水路開削工事により阿弥陀堂も廃止され、当寺に移されたといいます。

荒川放水路に近い地域には、影響を受けたエピソードがそこここに。


地名が分断されていて分かる

堀切  葛飾区に堀切はありますが、足立区曙町に堀切駅があります
千住  千住車庫が荒川の向こう側にあります。
    足立区足立って地名じゃね、
    意地でも千住の地名を手放さなかった?

旧水戸街道が荒川放水路で途切れる。昔は道があったのに。
旧日光街道もどうつながっていたんだろう。

江戸・東京の古地図では、千住は端っこ、葛飾区の小菅・上千葉くらいまで
機会があったら、また。

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