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旧水戸街道は向こう岸の小菅の拘置所(葛飾区)あたりへ繋がる

葛飾区の荒川放水路そばの大きな建物は、小菅の「東京拘置所」が目立つ。

千住新橋から見ても ↓

南東方面に拘置所

足立区側の途絶えたところで土手に上がってみても ↓

真向いは拘置所
写真の拘置所の右(南側)へ続くらしい

ここで土手に上がった写真です。

足立区民ですが、
介護の仕事をするなかで、葛飾区に多く関わりました。

葛飾区の旧水戸街道は小菅から始まります。

五街道に準ずる脇街道の水戸街道は千住宿を起点としているが、第二次世界大戦前の1930年に荒川放水路が完成したため、小菅までの旧道跡は消失してしまいました。そのため、荒川を渡った東京拘置所の南側からスタートすることにします。

旧街道ウォーキング

荒川放水路によって足立区と葛飾区を結ぶ昔の道が消えてしまった。
葛飾区へ入ってからの道も
拘置所の大きな建物によって消されてしまったものがあるのではないか。
水戸橋への道筋ははっきりわかりません。


葛飾を通った道
 葛飾には水戸佐倉道という道が通っていました。水戸佐倉道は、江戸と水戸(茨城県)、江戸と佐倉(千葉県)を結ぶ道で、新宿(葛飾区)で水戸方面と佐倉方面に分かれました。
 水戸は、将軍家の一族、徳川御三家のひとつ水戸徳川家(水戸藩)が治めていて、水戸藩主などがこの道を通っていました。また、江戸と水戸を結ぶ重要な道として、江戸幕府が管理していたのです。

葛飾区史

小菅万葉公園 - 神が宿るところ (goo.ne.jp)

ここに旧街道が通っていたのではないかもしれない。
小菅駅と拘置所の間から、北側にある公園です。

26歳から2年間くらい、45年以上前この公園の北側の道を通って、綾瀬にある勤務先に通っていました。そのころの桜は見事でした。(今は衰退)

この公園の北側の道は、20年以上の中断のあと介護職の私の頻繁に通る道になりました。
伊藤谷橋(いとやばし)で綾瀬川を渡ります。

伊藤谷橋を渡ったところにある綾瀬稲荷神社は400年の歴史。

小菅から綾瀬への道、東綾瀬の東部センターで働いていたので、若いころの2年間は、綾瀬駅の北側へすぐに出てしまっていました。

50歳過ぎから介護の仕事に就くと綾瀬の南側、拘置所の北側の道を良く通りました。
勤労福祉会館(プルミエ)へ伊藤谷橋で綾瀬川を渡って亀有へ続く道を進むと旧水戸街道の道筋になります。
千住に住む私が亀有に自転車で(歩いて)行く場合、この道がベストです。

どれだけ通ったか分からないくらい活用しました。車が多くなく、適度に幅広く、微妙に曲がりながら亀有の南側の中川橋へ抜けられます。

私的には、伊藤谷橋からの方が、千住の切れ目からまっすぐのような気がしています。

因みに、東京拘置所のある場所は、江戸時代初期には関東郡代伊奈忠治の広大な下屋敷で、徳川吉宗のとき、将軍家の鷹狩りの際の休息所となった(「小菅御殿」)。明治時代には、小菅県の県庁が置かれたが、短期間で廃止となり、監獄と煉瓦工場となった。この小菅監獄が現在の東京拘置所に引き継がれたという。

拘置所の南側をぬけてもっと南に行くと。水戸橋があります。
この橋も、伊藤谷橋と同じくらい渡りました。

水戸橋を渡ったあたりが、旧水戸街道の葛飾区でのルートとされています。

水戸橋を渡ったところにある小菅神社は明治にできている。

小菅神社の由緒

小菅神社は、明治2年に小菅県が設置された際、庁内に勧請された小菅神社は、その後小菅村の鎮守であった田中稲荷神社の境内に移され合祀、小菅神社となりました。

葛飾区神社調査報告による小菅神社の由緒

明治2年、この地域を含めて小菅県が設置された時、小菅県の知県事河瀬秀治は庁内(現東京拘置所内)に伊勢の皇大神宮を勧請し、県下356ヵ町村の守護神としたことに始まる。同5年3月、小菅県所管の葛飾郡72ヵ村等が東京府に移管され、社は小菅村の鎮守田中稲荷神社の境内に移し、小菅大神宮として村の氏神となり、同42年小菅神社と改称し、稲荷神社を摂社とした。(中略)

拝殿は昭和30年、本殿は同44年に改築、幣殿は大正12年に造営、昭和30年に改築されたが、昭和54年9月に現社殿が造営された。

田中稲荷神社については「新編武蔵風土記稿」小菅村の条に「稲荷社ニ 一ハ村ノ鎮守、田中稲荷ト号ス。正覚寺持」とあり、慶長年間小菅村開拓当寺、祀られたものといわれ、田中の名称については明らかでないが、一説には隣村堀切村の領主大胡内少輔勝行の家臣田中某の勧請によるという。(葛飾区教育委員会 葛飾区神社調査報告より)

猫の足跡

水戸橋を渡って東北東へ抜ける道、幅と言い角度と言い、昔の道っぽい。
橋の名も水戸橋。
この先はもっと曲がりが多くなり、もっと昔の道らしい。
伊藤谷橋の道は、自転車最適道としましょう。それほど曲がらず、旧水戸街道へ合流していきます。


車社会に合わせて作られた道でない、古くからの人が通る道
辿っていきたいと思います。

東へ続く
今日はここで

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