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初めて活字になった詩のこと

『生まれて初めて詩を書いた日』で、小学校低学年の時に初めて書いた詩を母親から鼻で笑われたことを書いた。いやあ、あれはいま思い出しても胸が痛くなる。よく泣かなかったよな。偉いぞ、あの時の私。

当然のことであるが、その出来事の後はずっと詩を書かなかった。まあ元々が学校の宿題だったし、そういう必然性がなければ小学生が詩を書くことなんてほとんどないと思う。私も他の子どもたちと同じように、何か特別なことでも起こらない限りそのまま「詩を書かないし、読みもしない普通の大人」になっていただろう。

しかし高校の時にその「特別なこと」が起こったのだ。

当時の中高校生たちの多くは、学校から勧められる形で「中1コース」や「高一時代」といった中高生向けの学年別雑誌を読んでいた。私も中学生の時に時代、高校に入ってからはコースを定期購読していた。

あれは確か高校2年の5月か6月か7月頃だったと思う(また曖昧かよ)。私は学校の休み時間に親友のAと普通の友人であるBの3人で、いつものようにバカ話をしていた。その時に誰が言い出したのかは憶えていないのだが、「『高2コースの詩のコーナーに作品を載せることができるかどうか賭けをしよう」という話になった。当時のコースには詩、短歌、俳句の投稿コーナーがあり、入選作と佳作は誌面に掲載されていた。確か入選作は500円分の図書券がもらえたと思う。

その時点で3人とも詩なんて書いていなかったから、まあフェアな勝負であると言えた。しかし同時に、まず勝負が成立することはないとも思われた。いくら学生誌とはいえ、素人がいきなり書いた詩が掲載されるほど世の中は甘くない。親友Aは「僕は無理だからパス」と始まる前からさっさと降りてしまい、結局は私と友人Bの一騎打ちということになった。

素人とは言ったが、実は当時の私はまったく詩に触れていなかったわけではなかった。きっかけは中学時代に出会った少女マンガだった。私は妹が読んでいた「りぼん」や「なかよし」系の少女マンガにハマり、やがて萩尾望都竹宮恵子といった「24年組」と呼ばれる作家たちの本を貪り読むようになった。そして彼女たちの作品の中に良く出てくる「詩人」という存在に憧れて、ランボーやヴェルレーヌやコクトー、中原中也や萩原朔太郎といった、まあ初心者向けの詩人たちの作品をよむようになっていた。そんなわけで高校時代の私の学生カバンには、「ヴェルレーヌ詩集」やコクトーの「恐るべき子供たち」、「中原中也詩集」といった文庫が常に必ず1冊は入っていた。まさにアイタタタタタである。ああ、中二病でも恋がしたい!(高校生です

さて賭けをすることになった日の放課後、私は帰宅途中に本屋へ立ち寄り文具コーナーで400字詰めの原稿用紙を買った。そして家に帰ると先に宿題を済ませ、小学校以来の詩作を開始したのである。

5分、10分、15分……まったく浮かんでこない。当たり前である。生まれてから2度目の詩作を開始して、いきなり書けるなんて天才くらいだろう。私はすぐに飽きた。いや無理。絶対無理。まず書けないし、書けたとしても入選どころか佳作も無理。私は本棚に並んだ「高2コース」の最新号を手に取り、詩のコーナーの掲載作を読んでみた。

いや、これはマジ無理だわw

最初に掲載作品を読むべきだった。そうすれば30分近くも時間を無駄にすることもなく、自分がいかに無謀な賭けをしたか気付いたはずだ。まあどうせBだって書けないだろう。私は本棚に「高2コース」を戻すと、その下の段にあった少女マンガ家の三原順の代表作のひとつである「はみだしっ子」の1冊を引っ張り出して読み始めた。

いま「はみだしっ子」全巻はクローゼットの奥にあるので正確には分からないのだが、私が手に取った巻には主人公の1人であるグレアムが「西行きのチケット」みたいなことを言うシーンがあって、なぜか私はその言葉を「いい」と思ったのだ。「いい。何かかっこいい。イカす」という感じである。

そして次の瞬間、いきなり私の人生で最初(最初ばっかりやな)の「詩が降ってくる」という現象が起こった。これも別記事の『詩「金色の窓辺」(詩が降ってきた瞬間)』で書いたように「完成した形で丸ごとドカッと降ってきた」のである。

その時、私は軽いパニック状態に陥った。それはそうだ。今までこんな経験をしたことがないから、自分に何が起こったのかすら瞬時には理解できなかった。とにかく降ってきたものを忘れないうちにと、目の前の原稿用紙に急いで書き殴った。元々が「ミミズがのたくっているような字」と言われるほどの悪筆だから、自分でも辛うじて読めるというひどい状態である。仕方がないので、私はそれを再び別の原稿用紙に清書した。今度は何とか読める字になったので、それを翌日の放課後に郵便局から「高2コース」の編集部へ発送した。

その後、友人Bに聞くと彼は詩を書けなかったみたいで(そちらの方が普通である)、それを聞いた私は「ふっふっふ、では作品を送った私の勝ちだな」と不敵に笑ったのであった。もちろん冗談だ。載るはずがない。万が一、掲載されるとしても選外佳作としてタイトルと名前だけだろう。

「言っておくが、入選か佳作で作品が載らないとダメだからな」

作品を送った以上は万が一にも可能性がある「選外佳作」を恐れ、Bはそう念を押したのであった。

それから3ヶ月ほど経った頃だったと思う。学校の帰り、私は本屋に立ち寄った。マンガコーナーで少し立ち読みしてから雑誌コーナーに移動すると、「高2コース」の最新号が平台に並んでいた。どうせ帰宅すれば定期購読分が届いているだろうとは思ったが、私は何気なくその号を手に取って詩のコーナーを開いてみた。

載ってる……載ってるぞオイ!?

いやマジでびっくりした。3ヶ月前に送った詩が入選作として掲載されていたのである。入選!? 小学校の時以来、人生で2度目に書いた詩がいきなり入選掲載!?

正直、状況が良く飲み込めなかった。え? 何? 詩ってこんなにチョロいの? もしかしてオレって天才? などと勘違いしてしまったのも無理はないだろう。その時の私の頭には、「ビギナーズラック」という謙虚な言葉が浮かんでこなかったのだ。まあ、それも仕方がないかも知れない。あまりにもあっさりと、私は賭けに勝ってしまったのだから。ちなみに選者は、あの田村隆一氏であった。選評は作品の長所と短所を、穏やかだが的確な言葉で指摘したものだったと記憶している。

本屋を出た私は、友人Bにこの事実を伝えるために近くの電話ボックスへ飛び込んだ。そう、当時はまだ携帯電話などというオサレなアイテムは存在せず、その代わりに街のあちらこちらに電話ボックスが設置されていたのである。

ボックスに飛び込んだ私は「あれ?」と思った。電話機の上に、革製で平べったくて長方形の物体が置いてあったのだ。

財布だ!

再び私はびっくり仰天である。中をチェックしてみると聖徳太子が3枚(当時の1万円札は聖徳太子だった)ほど入っていた。

さすがにネコババするほど汚れた心の少年ではなかった私は、とりあえずそれを学生カバンの中にしまってからBの家に電話をかけた。ちょうどタイミング良く本人が電話に出た。

「『高2コース』に詩が載ってたよ。入選」

「なにーっ!?」(ガチャン!!)

衝撃を受けたBは、思わず電話を切ってしまったのであった。まあ彼がいくら現実逃避をしても事実は変わらない。私は半笑いで電話ボックスを出ると、そのまま近くにあった警察署へ向かったのであった。

さてその後、賭けに勝った私はBにお好み焼きのミックスを奢らせた。間もなく入選の商品である500円分の図書券も送られてきた。拾った財布の持ち主はすぐに見つかり、私は謝礼金として5000円を受け取った。おそらく私はこの時、人生における幸運の半分くらいを使ってしまったのではないだろうか。

とにかく、それから私はコースへの投稿にのめり込んでいくことになる。詩はけっこうな頻度で降ってくるようになり、その中から厳選して送った作品は打率5割くらいで入選か佳作か選外佳作になった。さらに短歌や俳句も書くようになり、それらもいくつかが掲載された。ちなみに当時は、まだ季語というものを良く理解していなかった。まったく恐ろしい。無知ゆえの蛮勇である。

あの頃、どうして私がいきなり詩を書けるようになったのか分からない。ただ、小さい頃から読書量に関してはそこら辺の子どもには負けていなかった。おそらく読書という知識の蓄積作業が、創作活動に役立ったのだろう。実際、それくらいしか理由が思いつかない。

それから、このことも正直に書いておかなければならない。当時の私の詩や短歌や俳句のレベルは、まあ入選することもあったが客観的に見れば大したことのないものだった。はっきり言って、いま読み返してみるとゴミクズに等しいものばかりである。同じ入選や佳作でも、他の人たちの作品はいかにも「詩」「短歌」「俳句」という感じがした。詩作品関して言えば、当時の段階ですでに詩誌へ送っても掲載されるような作品も少なくなかった。

しかし残念ながら、当時の私は自分の作品を客観的に見ることができなかった。それは今も同じである。そしてそれは創作者としては大きなハンディと言えた。私は作品が活字になるということでしか、自分を評価できなかったのである。

それはともかく、私はその後も詩と短歌と俳句を書き続けた。さらに3年生になると小説執筆の真似事も開始した。だが、そんな私が20代前半で創作を中断することになる。まあ、その話はいずれまた機会があれば……。

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