国有提供施設等所在市町村助成交付金に対する要望書

昭和35年(1960年)9月1日
精華町長 高田 熊三郎
自治大臣 山崎 巖 殿

精華町に所在する自衛隊祝園弾薬庫は、昭和16年、当時の陸軍省の手によって建設せられ、東洋一の規模を誇り、終戦に至る間、戦争遂行の原動力として完全にその機能を発揮したのであります。

米軍の進駐とともに、一時、その施設の破壊が行われたのでありますが、本施設の優秀性に着目した米軍は、あらためて在日米軍の弾薬庫として使用することになり、特に朝鮮戦争の遂行に大きな役割を果たしたことは、世人の記憶にあたらなるものがあります。

爾来、徐々に米軍の日本撤退・基地返還が始まり、当弾薬庫も、昭和33年11月18日、日本政府に対し正式に返還が行われ、戦中・戦後18年に亘って弾薬の恐怖とともに生活してきた町民をして安堵の胸をなでおろさせたのでありました。

これよりの先、町においては予想される返還に対処して、かつて陸軍省に土地を提供した農民により返還が叫ばれたのをきっかけに、多年に亘り町の発展を阻害してきた180万坪に及ぶ本施設を新町建設計画の一環として取入れ、町百年の大方針を打ち立て、これが地元への払下げ工場住宅地としての開放を強く当局に要望してまいりました。

しかるに、防衛庁は本施設の弾薬庫としての価値を高く評価し、自衛隊の弾薬庫として再使用を決定し、地元にその諒解を求めてきたのでありますが、勿論これを拒否し、強力に地元へ返還運動をつづけてきたのであります。

しかしながら、脆弱な町の財政のもとで長期に亘る闘争は、それによって失われる助成交付金と合わせて持続が困難であり、またたとえ闘争継続中は弾薬の集積が行われなくとも、施設がそのままの状態で存在し、防衛庁が時間をかけてもその目的を達成しようとする限り、地元或いは民間に払下げの機会は得られないものと断定せざるを得ず、これ以上の運動を続けることは徒に町財政を赤字に導くのみであるとの結論に達し、本年2月26日、遂に涙をのんで自衛隊の使用に同意したのであります。

当町は、京都・大阪・奈良のほぼ中央に位置し、国鉄・私鉄が縦横に通ずる交通至便の地にて、なだらかな丘陵が起伏し、工場としても住宅地としても、もっともふさわしい土地柄であり、終戦直後二、三の大企業より土地の物色が行われたこともありましたが、弾薬庫の存在がいづれもその実現をみずに終わったのであります。

近年における産業、殊に工業部門の発展はいちじるしく、大都市の近郊を次々と工場又は住宅地として育てあげております。

立地条件に恵まれた当町は、当然、その構想圏内にあり洋々たる前途の発展を約束されるべきであるにも拘わらず、弾薬庫の存在がその芽を摘み、現状を維持するに汲々たる状態であり、工場誘致・集団住宅の候補地、ゴルフ場等々、近隣の市町が次々と新しい発展の糸口をつかんでゆくのにひきかえ、当町はその発展要素を具備しながら、ひとり取り残されてゆくのであります。

国内には数多くの国有資産が存在しており、しかもその多くはこれらの施設のあることによって所在市町村は大きな利益と地方発展の原動力となっているのでありますが、当町の場合は全くその反対という数少ない被害者であるということが出来るのであります。

米軍の返還によって弾薬庫の機能が一時停止し安堵したのもつかのまで、再び半永久的に弾薬の恐怖と闘い、町百年の大計も皮算用に終わった現在、すべてを助成交付金にかけ町財政の充実、不測の事態に備えて諸種の対策をたてねばならないのであります。

以上、申述べました当町の事情を御諒承願いまして、35年度の助成交付金の算定に際しては過去の交付額にとらわることなく、格別のご配慮を賜りますよう要望する次第であります。

※読みやすいよう原文に句読点を付加しています。

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