カミガタ・バニッシュメント
男。
着衣はボロボロだが、着物だとかろうじて分かる。
手には、汚れてすり切れた扇子が握られている。
噺家だ。
「おつとめご苦労さん」
その噺家の前の、豪華な着物を着た、また噺家が言った。
じろり、と、ボロボロの男が睨んだ。
そして一言。
「何の用や」
通る声だ。
その声に気圧されたのか、豪華な着物の噺家は、口をムッと結んでから答えた。
「兄弟子にそんな無礼な口、よう叩くな」
「それは兄さんが下手くそやからや」
後ろに控えていた、もう一人の男は顔をゆがませた。
当然だ。この下手くそと罵倒された男こそが上方落語の顔だからだ。
(こん人は上方落語協会の理事やぞ!何様やこいつ!)
だが、その上方落語協会の理事は、不快を顔に出すことすらせず、にやりと笑った。
「変わらんな、小朝。」
ボロの男も薄く笑った。
「今生兄さんの腕はちょっとは上がりましたか?」
「かぁ-!憎い口ききよる!」
眠屋今生。上方落語協会理事。
人間国宝も視野に入るほどの名人と言われている。
ならばその対面に座る、ボロの男は誰だ?
弟子はその顔を見て必死に思い出そうとするが、全く分からない。
それを男が見咎めた。あまりに鋭い目。
「なんやボウズ、ワシに用か?」
「あっ、スンマセン!」
反射的に謝るが、ジワっと汗が滲んだ。
「気にしやんな。用があるのは俺や」
今生は懐から扇子を取り出した。
「コイツを"消して"欲しい」
小朝は扇子を手に取り、開いた。
『噺は落語にあらず、裏噺こそ落語なり。夜薙屋上手』
小朝は扇子を閉じる。
そして噛みしめるように呟いた。
「…『裏噺』。」
「仕遂げたら、何でも願いを叶えたる。俺にできる限りは。これでも理事や。」
小朝はその言葉に、ふっと息を吐くと、茶を啜って、少し間を開けた。
そして二言は無いなと念を押すように睨むと、口を開いた。
「…高座に上がりたい」
今生は、また口をムっと結んでから答えた。
「決まりや」
今生はパンパンと手を叩く。そうすると扉を開けて、理事室に弟子がわらわらと現れた。
「新しい着物と、散髪と、いや、まずシャワーやな!」
「兄さん、ちょっとまってんか」
「なんや小朝」
「こいつ誰でっか?」
小朝が扇子で指したのは、痩せた暗い赤色の着物の男。
「あ?あーコイツは、えっと、誰やっけ?」
暗い赤色の着物の男は、ゆらりと答えた。
「へぇ、…まあなんといいますか、バカもハサミも使いようと申しますが」
枕。
『裏噺』
「使いようによっちゃ切れるっていう話でしょうが、始末に負えない刃物ってのは切れすぎるもんでございます。ここで話をお一つ。
『切々舞』
昔々にあるところ、お殿様がおりましたんや。そのお殿様は、まつりごと、政治ですな、これはからっきし。お殿様になったのも長男だからって言うんで、嫌々なったような人やった。だけど、どんな人にも長所ちゅうのはあるもんで、このお殿様も大層な特技をもってはった、それが刀鍛冶。こう鉄をカーン、カーンと打って、刀を作る奴ですな、それの腕前がそらもう凄かった。それで、ある日、一本の刀を打つと、試し切り役を呼びつけはった。
おい、浅の助、これへ
いやぁ~へいへい、上様、ご機嫌麗しゅう
なんてもんで浅の助が駆けつけましたんや。そこへお殿様が、刀を一振り、ずるりと出しはった。
これだ
拝見いたします…これは!
これに浅の助は驚いたのなんの。お殿様の腕がいいのは知ってたけども、試し役として古今東西の名刀を見続けた浅の助でも、生まれてこのかた見たこと無いような、それは見事な刀やった。
これを試して欲しい
ははぁー!
と、言うわけで刀の切れ味を試すために、庭一杯に罪人の死体が集められたんですな。昔は刀を試すなら人間、人間なら罪人の死体、ということで、これが一般的やった。
ではこれへ
浅の助が刀を構えて、スッ、と下ろすと、何の手応えも無く死体が真っ二つになる。これはすごいと何度も何度も、場合によっては何体重ねても、何の手応えも無く綺麗に切れる。浅の助は感心して、お殿様に報告したんですな
殿、これは天下一の名刀でございます。浅の助の名にかけて、これに斬れぬものはないと保証いたします。
これにお殿様は喜んだ。そしてその刀に『切々舞』と名前を付けて、これぞ天下の名品と自慢しはったんですわ。当然、城下町にもその評判が届きます。
おう、なんでもウチの殿様がとんでもあらへん刀を打たはったらしいで
そうなんでっか
おうよ、胴をなんぼ並べてもバッサバッサと手応え無しに、まるで蒲鉾みたいに切ってしまうらしいで
はぁ~、そらすごい、誰が試しはったんですか
そら、お城の浅の助はんやろ
お殿様の刀をお殿様の家来が試すんでっか
それもそやな
そら気ぃ使ってしゃあないですわな
確かに「なんでも斬れる」いうんは、おべっか使いすぎやわ!
と、こんな話になってもうた。これに納得できひんのがお殿様や。
浅の助、試しに手心は加えまいな?
こう問い詰めるわけや、こんなん言われたら、試し役として使えてる浅の助のプライドもある。
今も昔も一切の手心は加えておりません。
とまあ当然こうなるわけや。でも口でどう言っても、噂ばっかりはどうしようもあらへんもんで、これをどうにかするには、絶対に斬れんもんをバッサリ行くしかないという話になった。
余の鎧兜をこれに
はっ
と、浅の助がピュッと『切々舞』を振ると、ずんばらり、と大名の拵えた立派な鎧兜が真っ二つ。これはまさに斬れぬ物なしと浅の助が感心していると、お殿様が言いはった。
いや、この鎧兜は当家のお抱えの名匠の作品
いかにもそうでございましょう
故に、試しのために手心を加えたと言われかねん
お殿様はすっかりと疑心暗鬼になってしまわはったみたいで、鎧兜じゃ不十分やと言い出しはった。それなら最初から斬らんでも良かったわけやけど、まあ仕方ない。もっと斬れんもんはないかと相談になる。
父上の菩提寺に鉄灯籠がある、アレを斬ってはどうか
と、お殿様がそういわはる。そうなったらもう止めるものは、おりませんので、早速寺へ行く。
まあまあ、お殿様ようきはった、墓参りですかな?
と、住職が出迎えるのもそこそこに、浅の助と一緒に鉄灯籠の前へ。そして浅の助がムンッと刀を振り下ろせば、スッパリと鉄灯籠が斬れて落ちた。
おあ、これは…!
住職が目を白黒させるのを横目にして、浅の助が刀を褒める。
まさに天下一品の切れ味。これ以上の試しは必要ないでしょう。
だけど、お殿様、まだまだ疑心暗鬼がとけへん。
思えば、この鉄灯籠も当家の職人が作ったもの、これも斬れるよう手心を加えられていたのではないか?
なんと、疑り深いお殿様やと浅の助が天を仰げば、この寺ゆかりの偉い上人さんが作らせた、でっかい鐘が釣り下がってる。で、お殿様も気づいてしまった。
お殿様、ご容赦ください、ご容赦ください
と、住職が止めるのも聞かんと、浅の助これへ、と言うと、浅の助がキェー!と一振り。まあ見事に梵鐘が真っ二つになってもうた。浅の助もがまた褒める。
まさに天下に大音声にて轟く名刀にございます。かの名高き上人の鐘を真っ二つとは。
だけどお殿様は納得せぇへん。
その上人、何年前の坊主か?
住職がようやく気を取り直して答えます。
はぁ、この寺の出来たときですから、124年前でございます
そんな古い鐘、錆びておったのではないか?
まあ、これに住職は食ってかかった。寺の宝の梵鐘を斬られた挙げ句に難癖まで付けられたんやから当然です。
この梵鐘はまさしく上人の法力で錆び一つなく今日まで至っておりますれば、その上人の法力を疑うことは、仏法への誹りでございますぞ!
と来る。これに併せて浅の助も
まさしく神通力の法力を、一切ものともしない切れ味にございますれば、これぞ天下の名刀でございます
と褒めあげる。それを聞いたお殿様ははたと気づいて、こういわはった。
あいや、120年も前の坊主の神通力などきっとたかが知れている、やはり今生きているありがたい坊主を斬ってこそ、名刀の証となろう
と言うわけで、住職を見た。それで浅の助が切りにくそうな顔をすると、お殿様はまさにしたりと言った顔をしはる。
やはり、法力、神通力のなんと斬りがたきことか!浅の助!これへ!
ご容赦を、ご容赦を!
浅の助がエイヤと刀を振り下ろすと、寺の住職は真っ二つ。浅の助がすかさず褒める。
まさに神通力をも切り捨てる、三千世界に二つと無き真の名刀にございます。
と、でもまだお殿様は暗い顔をしてはる。
どうなされましたか?
やはり、こやつも当家の菩提寺の住職。斬られるにあたって神通力を弱めて手心を加えたのではないか?
とおっしゃる。これはもうどうしようも無いと浅の助が思ったとき、お殿様が閃いた。
浅の助、余を斬れ!
いやいやいやいや、無理にござる、無理にござる!
余ならば斬られるとき、きっと手心など加えはせん!斬れ!斬ってくれ!
浅の助は言葉では無理と土下座をして許しを請う。そうやって問答をしていると、寺に馬が駆け入ってきた。何用か、今取り込み中であると、お殿様が尋ねれば、こう答えた。
刀鍛冶にうつつを抜かすならばまだしも、菩提寺にての乱行の数々、長子なれどもはや当主の器にあらずと弟君が名乗りを上げて、今まさにご当主となられた。
と、そして続けてこういった。
乱行の責、甚だ重く、もはや蟄居や流刑の沙汰ではおさまり申さぬ故、腹を切られよ!おお、浅の助殿、丁度良きところにおられた。介錯をお頼み申す。
それを聞いたお殿様、いや元お殿様。喜びはって
浅の助!これで斬れるな!
深夜。理事室。暗い赤色の着物の男は、つい、と扇子の鯉口を切った。
『裏噺』とは、研ぎ澄まされ異能にまで昇華された『見立て』の技だ。
噺家が、扇子を箸だと『見立て』て、蕎麦を食う仕草をすれば、まさにそこに蕎麦が見える。
さらに突き詰めると、重みが出る。香りまで。味が分かる。
ならばもう、それはそこに、蕎麦が在るのだ。
『裏噺 切々舞』
天下無双の大妖刀の噺ならば、何を『見立て』るか?一つだ。
するする、と暗い赤色の着物の男が人と人の間を通り抜ける。
「お前!」
今生が叫ぶが、もう遅い。
理事室一杯の上方落語家は何も噺さぬ、ブロック肉となって床へ落ちた。
「へい、ご紹介に預かりました、夜薙屋上手の弟子をさせていただいております、夜薙屋炭蔵でございます。」
暗い着物の男は、夜薙屋炭蔵は、扇子を、天下無双の大妖刀を、肩に担いだ。
「くそ!逃げろ小朝!」
今生が炭蔵の前に立ち塞がるが、小朝は迷惑そうな顔をした。
「逃げるっちゅうんは、この下手くそからかいな」
「お前、まだそんなこと…!」
ずい、と小朝が前に出て、名乗った。
「噺家させてもらっとります、眠屋小朝いいます」
それは、語りかけるような口調だが、ただ事実を述べるように堅く、心に入り込むというよりは壁を無理矢理壊すような、鋭い名乗りだった。
そのまま、小朝は扇子を逆手に持つと、匕首に『見立て』た。
「小朝師匠、勉強させていただきます。でも、ちょっと期待外れやわ」
炭蔵が躍りかかる。
切々舞は天下一の大刀。対して、小朝は銘もない匕首。
勝負にならない。と、思われたが、切り結ぶ内に、炭蔵は焦り始めた。
優位のはずの自分の攻撃が当たらない。
上方落語協会ビルの地下に長年幽閉されていたはずのロートルの小朝に、夜薙屋上手の元で磨き上げた若く逞しい自分の噺が通じない。
小朝の痩せた腕が、小朝の変形した足が、何故そんなに動くのか。
答えは単純だ。裏噺家の戦いは身体能力で決定されるものではないからだ。
ただただ磨き上げた話術。それだけが戦いを『見立て』、殺し合いを『見立て』、相手の死を『見立て』るのだ。だが!
「おっと」
小朝の足が、ボロになった着物の裾を踏んだ。老いた肉体の限界か?
(好機!)
それを見逃さず、大きく踏み込んだ炭蔵の大刀が、小朝の匕首をすり抜けて、その腹に深々と刺さった。臓物の感触に、うひ、と炭蔵の口から歓びが漏れる。
「自分の勝ちですわ!小朝師匠!」
そのとき、匕首が開いた。違う、小朝の扇子が、みっつ、よっつほど、開いたのだ。
「夢ってのは、都合のええことばっかりでんな」
枕。
小朝は、その半開きの扇子を口元へ持って行くと、端を舐めた。香る。
あぁ、酒だ。杯だ。そのまま口を付けると、ぐぅっと一気に飲み干した。
『裏噺 芝浜』
炭蔵の手には扇子がある。違う、これは切々舞のはずだ。だが扇子だった。小朝の腹に、扇子が当たっている。血も、臓物も、刀も、消え失せた。
「え?」
炭蔵は何が起こったか分からなかった。
「ええ噺やな、もらうで」
小朝はそう言うと、杯を抜刀した。違う、大刀だ。
それは天下無双の大妖刀、切々舞ではないか。
驚く炭蔵の眼の前で、踊るように名刀が翻った。
首、胸、腰。
そこから炭蔵は切り離され、理事室の床に落ちた。
「と、まあ、こんな具合の噺でした」
小朝が大刀を鞘に、いや、開いた扇子を閉じると、そこには理事室一杯の屍があるのみだった。
「うっ」
凄惨な光景に眠屋今生はえづいた。
今生も、話は聞いていた。
小朝がなぜ上方落語協会ビルの地下に幽閉されるに至ったか。
その出来事に至るまでの、小朝の来歴も。人格も。知っているはずだった。
「…小朝、大丈夫か」
今生はその人間性を確かめようと、気遣った。
「あぁ、こいつもえらい下手くそやったな。兄さん、先にメシにしましょ」
今生は、自分が何を呼び起こしたのか知り、ようやく後悔した。
【続】
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