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早稲田大学に入ったのは間違いだったかもしれないとたまに思う

大学は企業に入るための肩書きを得る通過点に過ぎず、学ぶ場所ではなかったみたいだ。

最近よく早稲田大学に入ったのは間違いだったのではないかと自分と考える日が続いている。

特に社会人になってからだ.

勿論、早稲田大学での四年間はとても楽しいもので、出会った友達は一生の宝だ。

ただ早稲田に入ったせいで、人生の選択肢が狭まった。

私は昔から漫画家や芸術家になりたく、その道に進む気でいたので、一般企業を受けなかったのだ。そんな私は世間では、どうやら肩書きを‘’無駄‘’にしたと呼ばれるらしい。

私は夢は追い続ければ叶うものだと思っている。
だから、このまま毎日YouTubeを撮り、文章を描いて、好きなことだけをして、あの時努力をしてよかったと思える理想の生活を手に入れたい。私はお笑い芸人の下積みエピソードがとても大好きだ。しかし、この14歳くらいから計画していた大学卒業後のプランが、早稲田大学に入ってしまったせいで、とてもおかしいもののように周りには扱われる。

私は別にニートとして暮らしていきたいわけでもない。家には毎月お金は納めているし、卒業後に海外で放浪画家として生活する資金も貯めていた。それなのに、親戚や家族の集まりでは、私は笑い者のように話題にされる。友人にも時折物珍しい目で見られているのはひっそりと感じる。

私はそんなことで簡単に怯むような性格ではないが、ふとたまにもう二十歳を過ぎたんだから親の支配や期待から抜け出させてくれてもいいのではないかと思う。これが成績や肩書きで親のご機嫌を取ってきた子の代償だろうか。一生この親の期待というのは、自分の瞼の裏にしがみついては離れないものなのだろうか。

私はロジカルに企業で立派に働く自分は全く想像もつかないし、昔から褒められてきたことが芸術関連であるため、そっちの道に進んだ方が効率的に成功できると思い、自分の取った選択に誇りを持っていた。

しかし卒業後は、大半の友人が社会人である現実が思ったよりも現実であった。

自分の道に自信を持って進めなくなった。

自分の好きだったこと
好きなことに自信を持てなくなった
何が好きなのかわからなくなった

ああ私も結局こっち側の人間だったのか

日々こっち側の人間になっている感じがする

早稲田の当たり前から抜けたい

夢を追いかけるには、周りに同じ夢を持つ仲間が必要だ。

友達を作るのは得意なので、新たなコミュニティを探すのは苦労しないと思うが、私の人生の主軸の友人は早稲田大学の友人なため、その度に私は社会と私の深い溝淵にハマり続けることになるだろう。

でも何かと「早稲田出身」と書けば、一役注目されるだろうなって考え、肩書きを得るために必死にもがいたことのある私も、結局はそっち側の人間なのかもしれないな。

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