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自分の足で立つ「自立」ってなんだ?

「夢を叶える絵本」プロジェクトメンバーのさおり(@saori_kan0623)です。絵本のnote開設しました!(パチパチ)よろしくお願いします!

今日のお題は「自立」にしてみました。

自立心とはなんぞや?

はい、思うままに書くnoteの1記事目で、
いきなり変な話になってしまいました。

でもまぁ思ったまんまに書くやつなので、
メンバーの個性的な世界が出ててOKということで(笑)

自由に動けるための前提条件

あの頃の私はいつも
自由が欲しかった・・・!!!!(叫び)

古臭い変な歌詞みたいだけど、
結構なキッツい幼少期だったので、
小学生の頃にはすでに「家を出たい」といつも親に言ってたのです。

とにかく実家を出たくて、
勉強すれば遠くの中学(寮生活)へ逃げれる!と張り切ってたほど。


自由への渇望はハンパなかった。
ネガティブきっかけだけど。

だからね、自由の定義って人によると思うんだけど、
わたしの超個人的主観だったら、

「自由」=「自立」という方程式ができあがるのです。


子どもがハイハイできるようになる=自分で動ける1歩目
子どもが歩けるようになる=二歩目

みたいな感覚があるのです。


とにかく、
親の手を借りなくても、
自分の目的を果たせる「わたし」になるのだ!みたいな。


自分の意思で、自由に動けることを死ぬほど望んでた。


そのためには、
自分の足で立って歩けること(自立)することが絶対条件。


歩けない(自立できない)と、
生きるなら親の支えが必要だし、
それだと自由は得られない。


自分の意思で、
好きなように自由に歩き回りたい(生きたい)なら、
自分で何でもできるようになるのはマスト。


ってことは、
自分で何でもできるようになるためなら、
どんだけでもがんばれるぜ!
みたいなツヨツヨ感覚な人間が過去のわたしです。


自立した大人って悶絶するほどカッコ良くないかい?

「あんたたちダサい」

これ、新卒のとき会社の先輩(社会人10年目)に言われた言葉。


これね、めちゃくちゃ刺さった。


「わたしはカッコよく働きたい!!!」ってめちゃ思うようになり。

自立した大人に超絶憧れるようになったのです。


そっから、自立した大人ってなんだ?と
試行錯誤する会社員生活になるんだけど、
これは脱線するのでまた今度気が向いたら(笑)


とりあえず、
自分で何でもできる・わかるようになるために
いっぱい勉強して、
結果を出して、
仕事に責任を持つことができるようになってたのです。

「未来永劫発展し続ける組織づくり」「自立した人材育成」に目覚める

わたしはモーレツに働いた。

20代後半には自分で何でもできるようになって、
組織をマネジメントするようになった。

次私を導いてくれたのは
「自分で何でもできる人を育てる」ことだった。


この組織はもう私がいなくても大丈夫。


そう思える組織作りとか、
そう思えてる人を増やして組織に残すこととか、
そこに共感してくれて、応援してくれるお客さまを増やすこととか。


私がいなくても、
ずっとずっと発展していける。


育てた仲間・メンバーたちが
私がいた頃よりももっともっと活躍してる。


そんな世界を見るのが嬉しかったし、
本気で誇らしかった。


バンバン羽ばたいていって欲しくて、
ダイヤの原石のような人たちをたくさん採用したなぁ。

教えてたのはただ一つで、
「自分で見つけ、自分で行動し、自分で振り返り、自分はもちろん、自分の外の世界(家族・仲間・世の中)のために次につなげること」


何というか、
みんな一人ひとりが主役だという自覚をもって、
全員が活躍できる環境を整えて、
積極的に生きること。


そうすればみんな自由になれる。
人や環境に依存しない生き方。

当時はそれが自立だと思っていたんだ。

だって、
そうすれば
自分次第で、自分の好きなときに
好きなやり方で、好きなこと探求できるでしょ?

それってめちゃ楽しいでしょ。

だから自分の力で歩けるようになろうよ!
みたいな。


子どもたちの「自立」の前提条件は?

そんな生き方してきたし、
それで自信もついたし、
尖ってたのが穏やかなわたしになれたし、
それは今も超大事にしてるんだけど。

でもそこから先がある日見えなくなった。

それは妊娠出産。

本当に愛されることって何なのか?

幼少期拗らせていたわたし。

そこから反発するように頑張って自立したと思い込んで、
「お母さんのこと」はすべて乗り越えたと思い込んでた。


でもそれが自分が母親になって、
乗り越えてないって気付けたんですね。


3人産んだのですが、
根深いトラウマのように巣食っていた、
「実家問題」「母親問題」は、
産むごとに改善しました。

シンプルなんですが
心の底から
「あー、わたしお母さんのことが大好きで仕方なかっただけなんだ」
って分かったんです。

あんだけ大嫌いだった実家や母とは、
今では嘘みたいに仲良しになり、
大好きな場所に変わりました。

1人目:乗り越えたフリをしてただけだと分かり、産後うつのような人生崩壊・心の拠り所だった仕事・キャリア面がなぜか突然真っ暗に

2人目:微妙に心がざわついたものの、衝撃波はマシになっていた

3人目:心は微塵も揺れず、母のこと完全に乗り越えたって確信した


結果的に、
私は本当の意味での「親からの自立」を果たすのに
ずいぶんと時間がかかりました。

経済的自立はできていたけど、
精神的自立の完了が確認できたのは、
2022年のことでした(3人目出産時)。


今はわたしが母親になって、
4年の月日がたち、子どもたちに向けて
私に何ができるだろう?って、
子どもたちに何を伝えたいのかな?って、
そんなことを考えるだけでなく、
実践できる機会としてこのプロジェクトに参加してます。


私の場合は、
大嫌いだった実家を逃げ出すために、
自由を得るために必要な自立をするために、
自分で何でもわかる・できるようになったうえで
それを人に教えたり、人に学んだり、全体に広げたり・・・


そんなことを大事にしてきたけど、


母のことに気付けてからは、
もっと「楽しみ」に目を向けるようになったのです。

元々大好きな「学ぶこと・成長すること」は大前提として、
そこをもっと楽しめないかな?と。


学びそのものを思いきり楽しむ。
だから大好きなことに浸る、とか。



成長って別に急いですることでもなければ、
ストイックなものじゃなくていい。

急ぎたければ急いで、
ストイックにしたければすればいい。

でも別にそれが正解!とかはない。


うちの子は「はたらくくるま」「きょうりゅう」が大好きで、
ショベルカー・ティラノサウルスに1歳頃に興味をもち、
(たぶん最初は見た目から?)

ずっとそれらで遊んできて、
最近は「キャタピラがどうの・・・」
「アームがどうの・・・」って
言うようになったり、
私の知らない恐竜の名前や特徴を教えてくれるようになりました。


興味でたくさん触れていたら、
きっと自然と構造に興味をもったり、
種類が増えたりしたのでしょう。

覚えたことを楽しく、
聞いて欲しい相手にしゃべることで共有する。


こんな楽しい学びかたが、
本人の知識としてストックされているんだな。


何か工夫することを考えたり、
面白いなと思う相手と
一緒に何かを遊ぶように生み出したり。


子どものように・・・
なんて思ってたら、子どもの頃のわたしが出てきました。

子どもの頃、わたしは
面白いから!!という理由だけで、

自分で宿題考えて、問題演習に没頭したりするところがあった。


テーマは色々で、
「土星の輪っかの正体は石?」とかね。

自分で考えてずっと調べたり考えたりしてたんです。
ひとり自由研究みたいなことをしてました。


親は友達と遊ばない私を心配して、
外に行きなさいとか言ってたけど、

わたしはそのとき単純に
「これがどうなってるかをもっと考えたい」って思ってた。

そんな「知的な遊び心」が戻って来たのです。


会話や文章、
しゃべること、コミュニケーション。

せっかく持ってるそれらのツール。

人一倍、頭の中にいつも溢れてる「これは何?」「これは何?」っていう
子どものような知的好奇心。

ただ面白いから!という興味関心。

それをもっと出して生きていけたら
きっと毎日が遊びで満たされて楽しい。

そう、私にとっての自由とは、
「人生は遊び場だ」そのものなんだ。


仕事・キャリア!!みたいな
ツヨツヨ人間だと思い込んでたけど、

ベースは子どものような「興味関心・好奇心」


意思決定軸は「面白そうかどうか?」「楽しいかどうか?」


面白ければどこまでもしつこく続くし、
飽きれば終わる、超子どもみたいな人間が素のわたし。


これに気付けたら、答え合わせができたことが一つ。


働いてたリクルートを辞めたとき。


何で辞めるの?って聞かれて、
どこまで考え抜いても
「面白くない・飽きた・楽しくない」しか出てこなかったんですよ。


絶対他に理由あるはずだ!!!


って当時は突き詰めようとしてたけど、
今思えば本当にそうだったんだろうな。



子どもが「もういいや」って突然なるみたいな感じ(笑)


いやマジで子どもの頃のままですよ、
素のわたしってそんな感じ。


興味があるから、人や物事に近付く。


おっと脱線しました。
元に戻しましょう。


本当に愛される経験ができる・できないって、

そんなその子の特徴がダダ漏れ状態の
子ども時代に、

その特徴というか、
その子の素質みたいなもの。
素の姿をそのまんま受け止めたり、
早期に見極めて適切に関われる大人と出会えるか?


なのかもしれない。


愛情をかけるって、
優しく関わるって、その子の持つ素の特徴を
受け止める大人がいるかどうかなのかな。


本当に愛されてる実感を子どもが持てるかどうかって、
遠慮なくその素の自分を思いっきり出せる環境を作ってあげられるか?

なのかな。

最近の私はわが子に対して
そこを意識するようになり、
行動や言動・環境の一致みたいな・・・

そんなことできないかな?なんて思ってます。

いちばんスーッと素が出せる環境をどう作れるかな?みたいな。

そんな試行錯誤が始まってます。


子どもに「本当に愛されてるんだよ」って伝えるために、私には何ができるだろう?

言葉の発達途中の幼少期。

上記の「自分で宿題を考えて、ひたすら問題を解いてみる」
また疑問が出てきて問いをたて、
またそれを解いてみる・・・のループをしていた小学生の私。


こうなのかな?
それともこうなのかな?
正解のない、果てしなく広がる知的好奇心の旅が面白かったんです。


逆に正解のある勉強は、すぐ飽きてしまいつまらんかったです(笑)

受験はしたけどねー。


この感じを親に説明できなくて、
勉強が好きなの?うん!みたいな会話にしかならんかった当時。


自分の意思を理解してもらうことが
とっても難しかったんですね。


だからこの言葉、
つまり子どもたちと関わるなら
会話や文章、絵本。


そんなものを通じて、
子どもたち・大人の知的好奇心を満たしたり、
面白い!って思ってる間に
いつの間にか知識がついてる!みたいなことを
してみたいなーと思ってます。


逆に子どもの素の知的好奇心が満たされる体験。

それさえあれば、
「教科」の勉強ができなくても、
運動が苦手でも、
別になにもいらないって思ってるほどです(笑)


素の自分がのびのび遊べるって、
満たされるから、愛される実感にも繋がったりしないかな?

どうなのかな?

世界中の子どもの数だけ、夢があると思う

幼少期のおもちゃにブロックってあるじゃないですか。

面白そうな世界を考えて、

作ってみて、

完成品で遊んで、

壊す。


また考えて、作って・・・。の世界。


頭の中や、
心の中にだけ存在してた
想像の世界が、見える形で表せるんだ!みたいな。

「興味」→「イメージ」→「組み立て」→「完成」=「快感」


子どもたちがブロックで、

それぞれ好きなもの・世界を作るかのように

わたしも引き続き、
知的好奇心を純粋に楽しんで、
遊ぶように学び、遊ぶように働いていきたいなーって思ってます。


知的好奇心って、
本当に人それぞれで、
世界中の子どもたちも、一人ひとりがきっと違う。


好きなもの・興味あること。

それに触れてみて、考えてみて、遊んでみて、
ずっと満たし続けていたらきっと、
それが夢になったりしないかな。


遊んで満たしてるうちに
その分野に結果的に詳しくなって、

夢を叶えることに繋がらないかな。


仕事面、プライベート面、
物質面、精神面・・・

色んな側面で

「生活を豊かなものにしてくれるもの」

にならないかな。


そんなふうに思いながら、
日々面白いこと、楽しいこと、興味をもったことを
大切にできたらなーって思ってます!!

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