不登校に思うこと


社会が個人に求めるものが大きすぎるという話を書いたけど、そういえば、姪っ子が小学一年生の時、夏休みに貯金箱を作った。
小学一年生が作るものなので、段ボールを切って張ってみたいな……子供らしいものだったけど、それを学校に持って行ったあと、姪っ子はもう貯金箱を作らなくなった。

理由はわかりやすい。
みんな、お店で買うセットで作ったものを持ってくるから。誰も『小学一年生の手作り感あふれた貯金箱』は持ってこない。
だから、姪っ子は落ち込んで作らなくなった。

学校って、子供の意欲をそぐようにできてるのかなと思う。

もちろん注意書きでは『キットはダメ』と書いてはあるけど、みんなが作ってくるのはキットか親が作ったようなもの。親の工作となんて太刀打ちできるわけがない。
そして、『ダメ』と書いてあっても実際に禁止してるわけじゃないし、教師だって店先の大量のあのキットをすべて把握してるわけではない。さらに親が作ったかどうかなんてのも分かるわけがない。

さらに言えば、図工で作るものもすでに『お手本』が綺麗にあるキットだったりする。
絵や習字などは子供の個性が出やすいけど、選ばれるのは『大人が予想した範囲内の子どもの絵』や『習字を習っている上手い子の習字』で子供が自由に好きに楽しんで描いたというものが評価されるわけではない。

用はすでに『大人が用意した型』が出来ていて、それに合うかどうかが試されてる。

子どもの頃からそんな世界なのだから、大人は言うに及ばず……。ってやつですね。
だから、察しの良い子供は『型に合わせることができない自分』が分かってしまった時点でやる気を失う。

そういうのが、不登校なのだろうなと思う。

うちの姪っ子も境界線みたいな感じにいるなとは思う。学校を休むことは年数回あるし、雪でも「面倒だから学校行かない」と休むこともある。昔人間だと、「休むなんて」と目くじら立てるんだろうけど、数日休んでもちゃんと次の週には学校に行くんだから、それでいいじゃんと私は思う。
年計算だと大した日数でもない。

学校を休むことのメリットは『自分の力配分を見定めることができる』だとも思ってる。昔人間は「倒れるまで頑張れ」だったろうけど、今は「倒れる前にケアして短期間で戻る」の方が休むデメリットを減らせるので、そっちの方が絶対にいい。


学校の在り方が問題というのもよく聞くけど、そもそも教師が不足しててブラック労働でという……学校問題を知れば知るほど複雑すぎて、問題は子供だけではないという点でいろいろ詰んでるような気がしてしまう。

学校も『教師個人に対する要望が大きすぎる』ので、教師が潰れている。
社会の縮図が学校にもある。問題は不登校児だけではないんだよな。

病み過ぎる。闇すぎる。


姪っ子ですが、自分では作らないけど、親の作った貯金箱は嬉々として持って行ってます。親も楽しんで貯金箱を作ってる。
今の子育てってそいうものなのですね。コナシには分かりません。



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