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人生を心豊かにしてくれた手紙という映画

ある日汽車に乗ろうとしていた時、ホームに置いてあった無料で持ち帰ることができる鉢植えの花を見つけた若い女性。
その内の一鉢を手に取り、動き出した汽車に飛び乗ろうと走っていたら、その汽車から降りてきた一人の青年とぶつかり切符と赤い財布を落としてしまう。
この映画の始まりのシーンだ。


映像だけで柄にもなく涙が溢れて止まらなかった映画

駅でぶつかったのが切っ掛けで付き合うようになり結婚するが、その愛する夫を若くして病で亡くしてしまう。
夫は病で衰弱する中、知り合いの駅長に妻宛ての手紙を託す。
夫が死んでから生きる支えを亡くした若い妻は後を追おうとするが、死んだはずの夫から手紙が来る。
妻は度々来るその死んだはずの夫からの手紙に励まされて生きる勇気を取り戻す。
これがこの映画の大筋だ。

知らない街の書店から流れてきた曲

まだ冬ソナが流行する第一韓流ブームより3年ほど前の話だ。
ソウルへ来たのは三度目だった。
一番最初に来たのは30代だったが、この時は40歳を過ぎていた。

仕事関係の知人たちに誘われたツアーだったが、それぞれの旅行の価値観が異なり昼は別行動をしていた。
他の人とは夕食の焼肉店で落ち合う約束だ。

私はその日、韓国ソウルの北エリアにある名前も知らないアーケード街を歩いていた。
まだ約束の時間には余裕があるので時間を潰していたのだ。

一軒の本屋さんの前を通った時、店の中からよく知っている曲が聞こえてきた。
よく知っているのに曲名を思い出せない。
クラシックの名曲だ。

気になったので店に入ると、映画のCMらしき映像と一緒にその曲が流れていた。
もちろんすべて韓国語なので何も分からなかった。

なんとも懐かしい気持ちに引き込まれるようなその曲が、ヘンデルのオンブラマイフだったということは随分と後になって思い出した。

次の日、ホテルで優しそうなフロントマンに日本語で聞いてみた。
「昨日街を歩いていたら本屋さんで映画のCMが流れていて、その映画の題名を知りたいんですが」と聞くと、「どんな内容でしたか?」と言うので詳しく説明した。

日本語を話せるそのホテルマンは忙しい時間帯にもかかわらず、私の不器用な説明に耳を傾けてくれた。
私は「映画のCMと言いましたが違うかも知れません」と付け加え、そしてその曲をハミングで歌った。

ホテルマンは少し下を向いて考え込んだ後、「あ〜ピョンジ、日本語で手紙ですよ」と言った。
その後このホテルマンは、私の唯一の韓国人の友人になった。

映画が繋いでくれた外国の友人

その半年後もソウルに来た。
泊まったホテルは違ったが、前回泊まったホテルへ行って果物を差し入れた。
映画の題名を聞いただけではなく他にも親切にして頂いたからだ。

「ところで昨年教えて頂いたピョンジ(手紙)という映画を見ることができる映画館はないですか」と聞くと「たぶん今はどこの映画館でもやってないと思います」との返事だ。

ちょっと待っててほしいというからそのホテルのフロントのソファーに座って待っていると、「お待たせしました、私は夜勤明けで今仕事が終わったので手紙を買いに行きましょう」と彼は言った。

どういう意味かすぐには理解できなかったが、連れて行ってくれた店がビデオショップだったことで彼の真意が読みとれた。
彼は店の中を歩き回って二枚組のCDを見つけレジでお金を払った。

手紙が収録されているCDですと言って渡してくれたので、ポケットから財布を取り出し「いくらでしたか」と聞くと「いいですよ、差し入れのお礼です」と笑顔で言って値段も教えてはくれなかった。

「それじゃあせめて朝食でも」ということで、そのビデオショップの前にあったハンバーガーショップに行こうと言うことになった。
もう私が朝食を済ませているだろうと判断していた彼は、敢えてお手頃な店を選んでくれたようだった。

実際に腹が減ってはいなかった私はコーヒーだけを注文した。

そこで彼とプライベートの電話番号を交換した。

そしてその時から彼は私のことをヒョン(兄さん)と呼ぶようになった。

初めて見た韓国映画

彼はハンバーガー店を出て少し歩き、もう一軒の店に連れて行ってくれた。
数年前からソウルで流行り出したPCパンだった。
日本でいうPCカフェだ。

またもや受付でお金を払い私を一台のPCの前まで案内して「ここで手紙を見て下さい」と言って彼は出て行った。

私はヘッドホンを装着して彼が買ってくれたCDをパソコンに挿入した。

映画は韓国語で何を言っているのかさっぱり分からない。
だが雰囲気は伝わってくる。

主演の若い二人が出会って喫茶店でアイスコーヒーを飲むシーンは、見ているだけで自分の若い頃と重なった。
私が20代の頃もこれと同じような喫茶店があったからだ。

言葉も理解できないのに映画の世界に引き込まれた。
言葉が分からない代わりに最大限に想像力を働かせたからだ。

見ている内に涙が出て止まらなくなった。
40も過ぎたおじさんが、ソウルの若者が集まるPCパンで涙を流して映画を見ている姿を想像できるだろうか。

しかもそこに座っているのは韓国人ではなく日本の超田舎に住んでいるおじさんだ。

涙が出る要因はピョンジ(手紙)という映画のストーリーだけに起因したものではない。
もちろん映画のストーリーも充分泣けるものだ。
しかし今、この映画を見るまでに至った出来事もその涙になり得るものだった。

高価なメロンを差し入れたのではなく、ホテル近くの店で買ったありふれた桃などの果物セットを差し入れただけだ。
しかも今回はその彼が勤めているホテルに宿泊している訳でもない。

最初はハンカチを目に当てていたが途中からはそれもしなかった。
薄いアクリル板で仕切られた隣席の若者が出て行ったからだ。

映画の中で言葉をほとんど発しないシーンがある。
その時にもオンブラマイフが流れ、見ていた私の感情を揺さぶった。

そして夫が亡くなり思い出のシーンで流れるのがToo far awayという曲だった。
この時初めて聴く曲だったがその何とも言えない哀愁にまた涙した。

この曲の原曲が日本の歌だったことも何年も後で知った。

駅長から最後の手紙だと言って渡されたビデオに映っているのは最後の愛を伝える夫の姿だ。
一緒に市場で買った籐の椅子に座る亡くなった夫が、涙を流しながら妻に話しかける。
その夫が映るテレビを抱いて妻も泣いた。

それを見て私も泣いた。

そして夫が死んでから生まれた子供を、夫が愛した樹木にその子供を合わせに行くのがラストシーンだ。
この時に流れるのもヘンデルのオンブラマイフだった。

悲しいだけのエンディングではないのにまたこの音楽の効果で泣けた。
20年以上経過した今でもオンブラマイフを聴くと手紙のシーンを思い出す。

手紙という映画が韓国文化に興味を持った切っ掛け

なぜあの時彼は私にCDを買ってくれたのか。
なぜあんなに親切にしてくれたのか。

韓国人は年上の人を敬い割り勘文化がないことや、弁当文化がなかったことなどを帰ってから知った。
オンニ、オッパ、ヒョンと友人や先輩に親しみを込めて呼ぶこともこの頃知ったことだ。

それまで飲食店などで韓国人同士が話しているイメージから、韓国語を激しい言葉だと思っていた。
しかしこの映画で聴いた主演女優のナレーションは基より、この映画から聞こえてくる言葉のほとんどが韓国語のイメージを180度変えてしまった。

ホテルマンの友だちが発する日本語もなぜか心地よかった。

その後ホテルマンの彼はソウルのホテルを退職して、韓国の真ん中辺りにある慶尚北道のホテルに転職した。
そこには直指寺(チクチサ)という有名なお寺があり、私に家族を連れて遊びに来て下さいと言ってくれた。

私はその言葉を真に受けて、教科書問題で日韓が揺れていた最中に家族旅行を決行した。

当時発売されていた日韓共同キップを買って新幹線で博多まで行き、高速船で釜山港に渡り、セマウル特急で東大邱、東大邱駅でムグンファ急行に乗り換え金泉駅に行った。
その道中もセマウルの車掌さんや通訳をしてくれた若い女性など多くの方にお世話になった。

韓国の友人は仕事中だったが私たち家族を迎えにマイカーで金泉駅まで来てくれた。
この家族旅行でもその友人には随分とお世話になり、今でも私たち家族の大切な思い出になっている。

そして勤めていた会社が倒産したした辛い時に、この家族旅行の思い出が私の心を潤してくれた。
なぜならこの家族旅行も心温まる一期一会が溢れていたからだ。

韓国文化に興味を持った私はその後何度も韓国を訪れた。
日本では韓国ドラマが人気を博したが、私は韓国映画が好きだった。

八月のクリスマスでハン・ソッキュの演技に魅了されシュリも見た。
接続や春の日は過ぎゆくといった日本ではあまり知られていないような映画にも興味を持った。

海外の文化に興味を持ち定年退職後はアジアを歩いてみたいと思ったり、いまだに韓国語の勉強を趣味にしているのも最初のきっかけは韓国映画手紙(한국영화편지)だ。

その後の私の人生で、何があっても思いやりやいたわりやといった温かい心を保ちたいと思う切っ掛けになったのもこの映画だった。

#映画にまつわる思い出

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