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夢女子とはなんなのか、同担拒否とはなんなのか


次元の違う人に好意を寄せてから3年と少しが経った。

2年前、唐突にTwitter(現X)で夢小説を書き始めた。多分、フォローしている人の影響で夢小説というものを目にしたのだったと思う。そして、そこにいる彼の姿は私の知る彼の姿と少し違うように感じた。

専用のハッシュタグの存在も知り、彼の名前を加えて検索をかけてみた。けれど、いない。いなかった。

どこにも私の好きな彼がいなかった。
彼を書いている人はいるのだがどれも私にとっての「本当」ではなかった。

多分、この時点で私は同担拒否というものを自覚していたと思う。そしてこれが、私が夢小説を書き始めたきっかけにもなった。


私は、私の好きな彼のことを程よく知っている人(もしくはほぼ知らない人)と、私たち二人を祝福してくれる人にしか「私の中の」彼の話をしない。

万人と話が出来るのは完成された彼の人生(公式のストーリー)のこと以外何もない。特に同じ感情を同じ彼に向けている人とは絶対に話せない。できれば眼中に入れたくない。同じ想いを持って創作されたものを拝見することも、もちろん出来ない。

そもそも、私は彼のことを「世界にひとりしかいない存在」と思っている。私たち人間と同じく、彼らは全員、この世にたったひとりの存在。

そんな存在である彼に好意を寄せているのだから、同じ感情の人と出会せば不快な感情が芽生えるのは当然のことだろう。二股を簡単にするような人を私は好きにならない。

逆に「夢女子」と語っている人たちが同担同士で親睦を深めている状況に出会すと混乱する。彼女らは何を見ているのか私にはわからない。

たったひとりの存在である彼が、たったひとりの存在である私に意識を向けてくれる世界。そこに私は存在している。

そして多分、同じ思想を持つひとは皆、各々の世界で生きているのだと思っている。私の彼は貴女を知らないが、貴女の彼は私を知らないでしょう、と。

私的にはこれが今のところ精神の平静を保てる。
そしてこの感情と上手く付き合うためにも、私には「書く」ということが大切だった。

創り出せればそれは思い出になる。
他の誰でもない私と彼の思い出になる。

私が夢小説を書きたい理由は、恋人になりたいからではない。既にこれまでの話と矛盾があるが、多分そうなのだ。最終的には(好ましくない言い方だが)手段として恋人のような関係になるものを書くことが多いが、そこが最終的な目的ではない。

彼らと同じ時間を過ごしたい。
もっと近くに寄り添っていたい。

そうした時に、私にとって想像しやすく感情が動きやすいのが恋愛なだけなのだ。

身体が触れ合うような関係になりたいわけでもなく、可愛い可愛いともてはやされたいわけでもなく、お腹が痛い時に優しくして欲しいわけでもない。

ただ一緒になんでもない道を歩きたい。コンビニまでの道とか、忙し過ぎて停めたままにしていて忘れていた自転車を取りに行くまでの道とか。枯れ葉が不意にはらはらと舞って季節の流れに気づく道とか。

ただ生活をしてみたい。朝起きたら寝癖がひどかったり、ご飯をテーブルで向き合って食べたり、仕事帰りに買って帰ったお菓子が被っていたり、寝る前になんだか不機嫌になっているなって気が付いたらただ寂しいのを言い出せないだけだったり、あまりにも月が綺麗な夜にはわざわざ部屋で仕事をする彼をベランダに呼んでみたり。

ただ会話をしてみたい。おはよう、おやすみ、いってきます、いってらっしゃい、ありがとう、ごめんね。愛の言葉はなくたっていい。好きと言って欲しくて側にいるんじゃなくて、本当にただ側にいられたらいい。服についた埃を「わかるよ、格好いいからくっつきたくなっちゃうね」と言いながら取って笑われたい。

今、マネージャーやプロデューサーとして彼らの生活に携わり生きるこの時間も彼らとの時間の共有ではあるのだけれど、もっと側にいきたい。

彼らと生きてみたくて、書いている。
たぶん、そうなのだ。


私にとっての夢小説は彼らとの記憶。
そして同担拒否とはただただ自然のこと。

少々、強火になってしまった気がしますが、特定の個人への言葉はひとつもありません。私の為に、私の中で大切な何かを揺るがせたくないから、私はちゃんと言葉を持っていたいです。

後悔なんてないし恥ずかしいことだとも思っていない。彼らを好きだってこと、世界中に叫んだっていい。

それくらい、彼らは私にとって「光」です。

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