今後増していくと思われる地域コミュニティの魅力―全人格的な関係の優位性を考える

問題の所在

 昨今、SDGsに対する関心がますます広がりを見せている。企業も積極的な取り組みの姿勢をみせHPにCSR情報を記載することはある種のスタンダードとなったし、ESG投資が世界中の投資家から注目されるようになった。それに伴い、個人の消費行動や環境保全行動も変化している。マイバックやマイボトルの持参もそれらのひとつである。かつては社会の問題として捉えられていたのが、個人の問題として捉えられるようになった。個人レベルでも環境に対する危機感を持つようになったことを形象している事例と言える。また、今回のコロナウイルスは格差の問題を顕在化し、深刻化させることとなった。国内の格差についての議論も活発に交わされたが、格差の問題は決して国内だけの問題に留まらない。国際社会での格差も顕著になった。現在、オミクロン株が流行しているが、これは南アフリカ由来の変異ウイルスである。先進国がワクチンを先んじて確保したために、後進国である南アフリカに充分なワクチンが行き渡らず、結果的に変異株流行の温床となってしまったのだ。これらは「ワクチン格差」と言われ、国家間格差がはっきりと目に見えた瞬間でもあった。
 環境問題と格差の問題を取りあげたが、これらの問題が生じた原因は共通している。それは近代化である。「近代化とはマックス・ウェーバーによれば、「計算可能性の上昇をもたらす形式的手続きの一般化のことである」(宮台 2018:237)。計算可能はつまり合理化であり、私たちはグローバル化や都市化することによって資本合理性を追求してきた。結果的に経済は著しく発展した。一方で、環境よりも資本が重視される社会になり環境問題が深刻化し、自由を尊重しすぎたがゆえに平等が実現不可能となり格差が広がった。宮台は社会の空洞化や行きすぎた資本合理性の追求に対する問題を「感情の劣化」という言葉を使って表している。「感情の劣化」を平易な言葉に置き換えると、人々が純粋なコミュニケーションを行わなくなったということである。彼の問題意識のベクトルは社会、そしてその社会に生活する個人に向いている。彼はこれらの主張を展開するなかで、「ケツ舐め」や「クソ社会」、「クズ」などと過激な表現を使う。しかしながら、単にラジカルなだけではなく実は古典的な思想が土台となっている。例えば、「クソ社会」や「クズ」は、ウェーバーの思想に影響を受けており、それぞれはウェーバーのいうところの「鉄の檻」や「没主体化」を意味している。「流動性が高く多元的で複雑な社会に適応するには、過剰さによるノイズを持ち込まないために、相手に深くコミットしない」をベタに実践したらダメ。社会に適応する「フリ」だけでいい。そもそも社会はクソ。クソな社会に適応しきったら、頭の中もクソになっちゃうぜ」(宮台 2018:239)というのが彼の主張の大筋である。

コミュニティ↘︎とコミュニティ↗︎

 ここで一度立ち返りたいのはコミュニティ↘︎とコミュニティ↗︎の二項対立的なスキームである。コミュニティ↘︎は農村的関係で、他方コミュニティ↗︎は都市的関係といる。また、前者のコミュニティでは、相互扶助を原則に共同処理が行われ、後者のコミュニティでは専門家、専門機関による金銭を対価とした処理が行われる。
 これらの図式は、職場でのコミュニティの分類にも応用できる。具体例として、マニュアルの有無について検討する。前者の農村的関係が採用されるものとして同族経営の規模が小さい企業が挙げられる。後者の都市的関係が採用されるものとしては比較的に規模が大きい企業が挙げられる。実際に、筆者は両者に該当するそれぞれの会社で接客のアルバイトをしている。前者には家族経営の魚食処が当てはまり、後者にはホテル(ブライダルスタッフ)が当てはまる。その魚食処にはマニュアルはいっさい存在しなく、合理性はあまり重視されない。合理性や生産性よりも伝統や人間性が重視されている。従業員のコミュニティに注目すれば、それは親密そのものでありプライベートな事柄までも話題となりうる。しかし他方でホテルではマニュアルが事細かに存在し徹底的に合理性が重視される。そこでの従業員の同士のコミュニケーションは極めて希薄である。つまり、これらからわかるのは、農村的関係で成り立つコミュニティでは全人格的に結合し、都市的関係で成り立つコミュニティはでは目的合理的に結合しているということである。これらはコミュニティの衰退という文脈で、「ゲマンインシャフト」と「ゲゼルシャフト」というふたつの社会類型として、テンニエスが提唱した理論として確立されている。

考察(純粋な紐帯が体現されるコミュニティ)

 筆者がとりわけコミュニティとして魅力を感じているのは、ゲマインシャフトの方である。具体的には全人格的な付き合いが可能なムラ的なコミュニティである。都市化が進んだ原因は多様な切り口で説明できるが、最も容易な説明は、「近代化に伴い合理化を推し進めた結果、高密度に人を集約することで生産性の向上を実現し、それらが都市化に繋がった」ということになるだろう。システム化することで合理化を実現してきたが、そのシステムとして採用されたのが資本主義である。複雑な社会を運営していくためには有効なシステムであった。ただ、これらのシステムは人間の感情を置き去りにしてしまった側面もある。資本主義というシステムの中に閉じこもり主体性を持たず、システムの一部として機械的に日々を生きることがある意味で可能となった。
 これらを表象したものとして現代人の性愛がひとつ挙げられる。性愛は計算不能な存在であり、近代化に伴い軽視されるようになった。または資本主義が強靭になるなかで、性愛の中に市場メカニズムや資本合理性が介入し、本来(本当)の性愛に歪みが生まれた。後者の性愛に市場メカニズムや資本合理性が介入したということは、「婚活」「ビジネスカップル」「恋愛はコスパが悪い」などの言葉からも理解できる。
 しかしこうした合理化に対する人々の動向は変わりつつある。「感情の劣化」に対する議論はまだまだなされていないが、環境問題や格差の問題が「資本主義の終焉」という言葉までも生み出した。これらの事実から人々は合理化の外に新たな活路を見出しているということが正しいとすると、人々の感情や純粋性、そしてそれに伴う社交的関係が再び関心の対象になるだろう。つまり、それらを体現した農村的関係でのコミュニティにこそ人間らしさがあり、今後再評価されうるということを示唆している。ただ、現状の地域コミュニティはさまざまな問題を抱えている。社会学者の桜井政成はポルテスとランドルトがどのようにソーシャルキャピタルの負の側面をどのように概念化したのかを以下のように説明している。

「ポルテスとランドルトは、ゲットーと呼ばれるマイノリティや貧困者が多く居住する地域では、ソーシャル・キャピタルは豊富に存在していると言えますが、しかしその蓄積によって、彼らが貧困を克服するのを可能にすることはめったにないと述べています。なぜなら、ソーシャル・キャピタルには負の側面があるからだとしています。そうしたソーシャル・キャピタルの負の側面として、次の4点をあげています。それらは、①外部者を排除してしまうこと(閉鎖的になる)、②個人の自由を制限してしまうこと、③集団のメンバーから過度の要求が来ること(個人が押しつぶされるほどの周囲からの要望)、④規範の水準の押し下げ(皆が楽な方に、悪い方に流されてしまう現象)、の4点です」(桜井 2020:113-114)

 これは地方コミュニティの影の部分としての指摘ではあるが、これはまさに農村的関係でのコミュニティが孕む危険性でもある。このような要素も認識しながらコミュニティのあり方については対局感を持って考える必要がある。2014年に日本創成会議が日本の自治体の半数である896の自治体は消滅の可能性があるとの提言をまとめた。地方の衰退スピードは著しいが、人々が「純粋な紐帯」にますますの価値を見出すことでそれらにも少しは拍車をかけられるのではないか。


参考文献
PRESIDENT Online, 2018, 「日本の自治体の半数"896"消滅の可能性」
(https://president.jp/articles/-/24791, 2022年1月6日にアクセス).
桜井政成, 2020, 『コミュニティの幸福論―助け合うことの社会学』明石書店.
成城大学入試情報サイト, 2022, 「新型コロナウイルスと格差問題」
(https://admission.seijo.ac.jp/aboutus/manabi/sha/023, 2022年1月6日にアクセス).
長谷川正人・奥村隆, 2010, 『コミュニケーションの社会学』有斐閣アルマ.
宮台真司, 2018, 『社会という荒野を生きる。』ベストセラーズ(Kindle 版).


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