コロナ禍の苦悩–現在大学3回生の私が直面した困難

1.はじめに


私は大学3回生である。入学と同時期に新型コロナウイルス感染症が拡大し、夢にまで見たキャンパスライフは2年間実現しなかった。このウイルスが蔓延する中で、フィジカル空間での人々の接近、接触は忌避の対象となった。そのため、リアルでの相互作用を実践しない者こそが社会の模範であるとの規範さえ生まれた。結果的に大学は閉鎖され、オンラインでの学びを強いられることになった。また、その他にもさまざまな困難に直面した。
現在は、実際に身体を伴い大学にきて学びを得ることが可能になった。大学に来ることができなかった2年間があるからこそ、いかに大学での学びに相互作用が必要なのかを実感できるし、コロナ禍という未曾有の状況に直面したからこそ、そのときの自己や社会について社会学的に考察することに対する意義が生まれた。ネガティブな経験だったことには間違いないが、社会学を学ぶ学生としての強みを生かし、私のコロナ禍の体験を社会学的考察の対象とし、良き学びへと発展させたい。

2.学説の活用

2.1ジンメル―相互作用


「ジンメルは「相互作用(Wechselwirkung)」に焦点を当てた社会学者である」(奥村 2013:38)。つまり、彼は社会を単に客体として捉えるのではなく、絶え間ない個と個の相互作用こそが社会を形作っているとの前提から社会を記述することを試みた。社会を理解するうえでとりわけ重要になる相互作用という概念だが、コロナ禍ではこの相互作用こそがリスクとなった。大学での講義を考えてみても、講義室での教授と学生の相互作用は、オンラインを用いた一方的とも言える講義に変わった。また、同じ授業を受けている私たち学生同士の相互作用の機会も消滅した。「オンライン授業における学生間のインタラクション(相互作用)と全人格的な交流機会の担保」と題した論文の中には、「遠隔学習において、学生―学生間や学生―教員間のコミュニケーション機会が損なわれることから孤独感が生じ、それが学業継続の意思を招くとしている」(原田 2020:304)との問題に言及しており、相互作用が希薄化することの弊害は一次的なものにとどまらないことを示唆している。実際にこの相互作用はリアルな空間の中で副産物的に得られていた側面も多いと考えられ、オンラインでの代替時には獲得しにくいものなのかもしれない。

2.2フーコー―権力の没主体化


フーコーは、「「生」(身体、医療、性)と「知識」と「権力」を結びつけて考察」(平田 2022:7)した社会学者である。彼の権力論が語られるときに必ず紹介されるものに、パノプティコンがある。これは、「イギリスの功利主義者J. ベンサムが考案した円形の刑務所」(長谷川・奥村 2010:116)のことである。中心の監視塔には看守がおり、それらを囲むように配置された囚人はその看守の様子を伺うことができない。これらの特異な形状は、看守いつ見ているかわからないといった不安から囚人の逸脱行動は常に抑止できると考えられている。監視を囚人に内在させることを可能にしているといえる。言い換えれば、「監視者がみられることはない、という性質によって、権力を没個人化する(権力の中心点、権力の保持者がいなくなる)」(長谷川・奥村 2010:116)ということである。
 オンライン授業が中心となった大学生活ではこの権力を意図的に没個人化することが要請された。外部からの権力(監視)が遮断されたからだ。例えば、オンラインでのテストはインターネットで検索しようと思えばできる状況であるし、友達と協力しようと思えばできる状況である。また、授業を受けているときにもゲームをしていても、食事をしていても良い。すべての判断は自分次第であり、権力が自己に内在している状態なのである。これらは一方では自由とも言えるかもしれないが、膨大な判断を下す必要があるというと点で大きな負担となった。図書館が利用できる現在は、家では集中できないという理由から図書館で課題をする学生も多いが、自己による監視から外部からの監視に身を投じた結果といえると考えられる。外部からの監視はときに都合のいい装置になりうるのである。

3.むすびにかえて


コロナ禍の私と私を取り巻く社会について、ジンメルやフーコーの理論をもとに考察を進めてきた。これらの他にも、コロナ禍の社会や自己は多角的に分析できると考えられる。例えば、牧野の自己啓発をもとに考えるのもおもしろい。コロナ禍に私は自己啓発本をいくつか読んだ。純粋な読みたいという感情に駆られてそれらの本を読んでいたが、この行動は決して偶然ではなく社会から私へ何らかの働きかけがあったと思われる。権力が没主体化した延長線として自己を啓発することに心地よさを感じていたのか、社会との関わりの機会が減少したことにより自己効力感が低下しそれらを打開するためになのか、など考え始めると際限が無い。
 自己を主観的に捉えるばかりではなく、社会的な存在として客観的に捉えることで社会学的に考察が可能になる。困難と思われる状況も、このような社会学的な姿勢を持ち合わせていることで、乗り越えることができるのかもしれない。(2,028字)

参考文献
奥村隆, 2013, 『反コミュニケーション』弘文堂.
長谷川正人・奥村隆, 2010, 『コミュニケーションの社会学』有斐閣アルマ.

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