夜の空港を歩く
オンラインで大学院の授業を受け、いくつかのオンラインのミーティングをこなし、連載の原稿をオンラインで送信したのち、唐突に夜の空港を歩こうと思った。
元々空港は好きだ。時々行きたくなる。旅行に行く前の空港で待つ時間は特別好きだ。
でも、いくら空港が好きだからって、飛行機に乗る理由もないのに、わざわざ夜の8時に羽田空港に行く理由なんて、何もなかった。
空港について、ぼんやりと歩く。もちろん予定なんてない。人はまばらだ。緊急事態宣言が開けたとはいえ、往時の活況はない。
時折人影が見える。家族連れやカップルがほとんどで、その表情は明るい。
職員を除けば、飛行機に乗る予定のなさそうな人は誰も見ない。当たり前の話だ。
自動販売機で買った缶コーヒーを飲みながら空港に行き交う僅かな人影を眺めていると、おぼろげになぜこの場所に来ようと思ったかがわかってきた。
ここは、過程の場所だ。空港はA地点からB地点に行く途中の場所であり、どこかからどこかに向かうまでの過程でしかない。
だから、ここにいる間僕は、不思議と孤独を感じなかった。あるいは、日々感じるような焦燥感も。
誰もが旅人であり、目的地に至るまでの一時の時間を過ごしているだけだ。何かをしなければいけないわけでもない。
人生には様々な行き止まりがあるが、少なくともここは行き止まりではない。
ただ、そこにいて、時計の針がチクタクと音を立てているのを感じればいい。空港とはそういう場所なのだ。
空港にいると、少しだけ大学時代を思い出す。
我々はまだ何者でもなかった。どんな可能性も目の前にあり、全てはこれから始まるように感じた。大学時代は過程の時間だった。
今はどうだろう。それなりに目標は叶えてきた。今だって、どんなこともできそうに思える。しかし、実際はそうじゃない。
いくつかの可能性は閉ざされ、いくつかの夢は色あせ、いくつかの道はすでに絶たれた。
僕は、既に「過程」にない。好むと好まざるとにかかわらず、すでに社会にどっぷりと属している。
これが可能性に満ちた青春の行き着いた目的地の一つである。悪い人生ではないにせよ。
コロナ下で私は日々孤独を感じる。仕事のほとんどはリモートである。それ自体は大変にありがたいことだ。
それでも、人と人の接触がなくなると。私のような単身者で、かつリモート勤務の人間はリアルに人と話す機会が極端に減る。
多分それは、コロナが分断したものの一つだ。単身者とそうでない者の孤独は、深く深く断絶している。
時折思うこともある。自分は人生のプライオリティを間違えたのだろうか?と。僕はどこかに向かおうとしていた。A地点からB地点に。
とにもかくにも、組織を離れ、一人で何かを始めようとした。その結果が今だ。
しかし、こうも思う。どこかに向かっている人間は、たいてい一人なのだ、と。
何かに向かって、足を止めなければ、誰も孤独ではないのだ。とまり木で羽を休める鳥たちはただ風を感じて時を過ごす。
つまり私が空港を好きなのは、そういうことなのだろう。
空港を出て、夜の風を感じる。少し肌寒い。長い夏が終わり、秋が来ている。ただ時間が流れるだけで、人はどこかへ向かっている。
もう少し、歩いてみようと思う。
励みになります!これからも頑張ります。