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ファルマコンを探して (6) 展示風景が見てみたい part 2

あれから更にあれこれと検索をしまして、またいくつか資料を手にすることができました。

美術手帖にも取りこぼしがありました。1990年12月号に「『ファルマコン’90』が提示した場」というタイトルで美術評論家の高島直之氏による展評が寄せられています。
紙面3ページを使っての結構長い文章で写真もいくつか載っているのですが、そのうちのひとつは珍しく設営風景のもので目を引きました。

リチャード・セラ「Marilyn Monroe-Greta Garbo」ですね。高さは3m、長さは25mを超す巨大な鉄の板だから当たり前ですが、設営も大がかりでクレーンが2機も投入されています。かなり気を遣う作業だっただろうなあ、、、

続いては展示風景の画像です。美術手帖90年8月号に掲載されていた見取り図をもう一度載せて照らし合わせてみたいと思います。

まずはエントランスの階から見下ろして撮ったと思われる画像から。

手前に見えるのが中原浩大「Five Years Old」、その横にはジョナサン・ボロフスキー「The Friendly Giant at 2,908,463」と床に散らばっている「Eggs」という作品。なので見取り図では3番の位置がメインで写っています。
中原浩大さんの奥にある黒い横長の作品がキース・ヘリングの「Untitled」(見取り図4番)。3.6m×5.5mの大きい作品です。
右端に少しだけ見切れているのが、ウォルター・デ・マリア「360° I Ching」(見取り図1番)で使用された赤いカーペット。上に棒状のものが並んでいるのが確認できますが、こちらは28m四方にわたる大規模なインスタレーションだそう。
それを遮っている壁にかかっているのは手前からロバート・ラウシェンバーグ3点、ロイ・リキテンシュタイン1点、エドワード・ルシェ1点(見取り図2番)。ルシェの作品も約1.6m×3.5mがふたつ並ぶという巨大なものです。
その奥にポコっと飛び出ている壁にはジェームズ・ローゼンクイストの「New Clear Woman」とアンディ・ウォーホールの「Olympic Stadium」が並んでいます(見取り図11番)。

続いてはこちら。

フランク・ステラの巨大な作品が両脇に整然と並んでいて痺れます。会場では35番の位置にあったので、33番の辺りから壁の方に向いて撮られたものと思われます。

その上の画像と立ち位置はほとんど変わらず、90度ずれて出口の方を向いたのが次の画像です。

手前から3点はマイケル・ハイザーの作品(見取り図33番)。その奥に少しだけ見えているのがマーク・ディ・スヴェロ「Quantum」(見取り図45番)。その更に奥にはジェフ・クーンズ「Made In Heaven」(見取り図46番)があります。その右手、カラフルな床置きの作品は、原口典之「Untitled FDS」(見取り図40番)です。

続いては「美術の窓」という雑誌です。
まずは90年7月号に展示の紹介がされています。載っている情報は既知のものが大半だったのですが、最後の一文に目が止まりました。

あわせて15作家の自主制作によるポスター、バッグのグッズも販売。

ひとつ疑問が解けた!
バッグとポスターはやっぱり会場で販売されていたんですね。
次なる疑問は、これらのバッグとポスターの価格がいくらだったのか、です。これは引き続き調査ですね。

話は脱線しますが、「ファルマコン’90」の図録にも寄稿されている篠原資明氏のブログ「マブサビアン」の「鷲田清一さんの会」(2007年12月11日)という記事に一澤信三郎氏についての言及がありました。

帆布店の信三郎さんと知りえたのは、うれしいことのひとつ。ファルマコン展の実行委員のとき、一澤帆布にグッズの数々をお願いしていたことなど、話して盛りあがった。幕張メッセの展覧会も見に来てくれたそうだ。

信三郎氏はあくまで依頼があって携わっただけで、元々現代美術がお好きというわけではなかった、というのがこの文章を読んで私が受けた印象です。実際はどうだったんでしょうか。

話を「美術の窓」誌に戻します。90年9月号には会場風景の写真が掲載されていました。

美術手帖では少ししか写っていなかった、マーク・ディ・スヴェロ「Quantum」がメインになっています。左奥にはクーンズ。と、ここまでは分かるのですが、右奥の展示がよく分からない。位置関係からすると見取り図50番のマーク・ディ・スヴェロもしくはブルース・ナウマンなんでしょうが、天井からぶら下がっている幕みたいなものは一体何なんでしょうか。図録では確認できませんでした。その奥の白壁に展示されているのは51番の関口敦仁でしょうか。まだまだ分からないことが多すぎる、、、

ジョナサン・ボロフスキー作品も美術手帖とは別のアングルから。奥の壁は見取り図で言うところの5ブロックと6ブロックを隔てるもの。結構高いのが分かります。右奥に写っているのはキース・ヘリングの作品です。

原口典之「Untitled FBS」もこの迫力。奥に壁が見えていることから見取り図40番の端に設置されていたものでしょうか。

記事のほうは展評ではなく、関係者や学芸員など4人の方のコメントを載せるという、あっさりとした形態です。それぞれのコメントから気になった部分、目新しい情報の部分を抜き取って引用します。肩書きはすべて当時のものです。

まずは実行委員会より山本裕子氏。

実際に動きはじめたのが昨年の6月で、正直言って厳しい準備状況でした。

川村記念美術館学芸員の広本信幸氏。

作家と作品の選定、特に日本の若手作家の人選には多少、疑問が残りますが……。

北九州市立美術館学芸員の山根康愛氏。

海外の出品作家も、展示状況を高く評価していました。

国際交流基金の矢口國夫氏。

私的な企業だから、できた事でしょうね。公的な機関だと、現状では絶対に無理な企画だった。というのも、一般に対してこの美術展は説得力が弱いんです。やはり、現代美術をある程度理解した人のための展覧会と言えるかもしれません。

そのほか、「ファルマコン’90」の展評を載せている雑誌として、「美術手帖年鑑’91」と武蔵野美術大学がかつて発刊していた季刊誌「武蔵野美術」(評者高木修氏)がありましたが、展示風景は掲載していなかったので今回は割愛します。

「ファルマコン’90」は24日間の会期で2万7830人の来場者を集めて終了しました(「美術の窓」誌のレポートによると初日の来場者数は1500人だったとか)。
「この夏の小さからぬ話題となりつつも、決定的な評価を得ぬまま、幕を閉じた。」と、美術手帖の展評で高島直之氏はそうばっさり書いていますが、上のコメントにもある通り「現代美術をある程度理解した人のための展覧会」だったからこそだったのかもしれません。

2000年代に入ると芸術祭が催されるようになっていきますが、2001年の「ヨコハマトリエンナーレ」初回の来場者数は約35万人。これぐらい動員するためには行政が主体になってテレビや新聞でバンバン広告を打って(このときの主催にはNHKや朝日新聞が入っていました)現代美術にさほど興味のない層を取り込まないと難しいんでしょうね。まあ、「ファルマコン’90」の場合はそれを望んでいたとも思えないですが。

最後に、「再展示.com」という、もう一度見てみたい展示に投票を募るという趣旨のサイトより、「ファルマコン’90」に入れた方のコメントを引用します。この方は実際にご覧になっているのですが、コメントは私の思いと重なるところがあります。

 当時現代美術のことなどほとんど知らない学生で、自宅のとなり駅近くに出来た新名所(笑)、幕張メッセでなんかやってるらしいから見に行こう、と出かけたものです。手元に資料がないので曖昧模糊とした印象だけが残っているのですが、巨大な会場に巨大な作品がたくさん散らばっていて…今でも思い出すとキツネにばかされたような気分になります。千葉の田舎であんなこと、本当にあったのだろうか。バブルはすでに崩壊していましたが、あのあたりが国際美術展華やかなりし時代の最後だったのかも知れません。バブル期の美術界を知らないので、あの資金力、スケール、勢いってどんなものだったのだろうと、つい想像します。


〈トップ画像について〉
「ファルマコン’90」図録より、ウォルター・デ・マリア「360° I Ching」。古代中国の「易経」の64卦を長短2種類の六角形の白塗りの棒で表現した作品です。
芸術祭から現代アートの世界に入ってきた身としてはウォルター・デ・マリアと言えば地中美術館に恒久設置されている作品が非常に強く印象に残っているのですが(最初あの空間に入ったときは鳥肌が立った)、それ以外に作品は見たことがなく。いつか見る機会があればいいなあと思っています。

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