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ファルマコンを探して (8) 現代美術なんて興味のない人たち

バブル期は日本の企業や実業家が「ジャパン・マネー」でさまざまなものを買い上げました。美術品もその例に漏れず、印象派をはじめとする絵画が日本にもたらされました。
安田火災海上保険がクリスティーズでゴッホの「ひまわり」を58億円で落札したのが1987年。当時のオークション最高額を更新しました。その後90年には斉藤了英氏がゴッホの「医師ガシェの肖像」を125億円で、ルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」を119億円で落札。「死んだら棺桶に入れてもらうつもり」発言が物議を醸しました。

前回の最後に触れた「週刊文春」1990年7月19日号で取り上げられたスクープ記事は「斉藤了英氏が買ったルノワール百十九億円に“贋作”疑惑ー西独美術誌が徹底検証」。「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」がやり玉にあげられました。
「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」は2種類あって、大きい方がオルセー美術館に所蔵されているもの、小さい方が斉藤氏購入のものとされています。なので贋作についてはあらぬ疑いなのですが、ジャパン・マネーで美術品がどんどん日本に流れていくことへの反発もあって当時は厳しい視線を注がれていたことがよく分かります。

1990年に横浜で開催された「バルセロナ&ヨコハマ シティ・クリエーション(BAY90)」というバルセロナの都市デザインを紹介するイベントの一環として、横浜美術館では「バルセロナ・アヴァンギャルド バルセロナ特別美術展」という展覧会が行われました。
2部構成となっている展覧会のうち、Part1では、ピカソ、ジョアン・ミロ、フリオ・ゴンザレスの3人が「20世紀の巨匠」として紹介されました。

図録よりピカソの出品リストを見てみます。
「青い肩かけの女」の所蔵先が愛知県となっているのは、当時はまだ愛知県美術館が開館していないから。1992年の開館に先駆けて87年に東海銀行(当時)が孫娘のマリーナ・ピカソから購入して寄贈したものです。
多くはバルセロナもしくは国内の美術館から借りたものですが、見慣れない会社や美術館の名前があるのに気づきます。その名前を追っていくと絵画バブルに身を投じて翻弄された経営者たちの姿が浮かんできます。

⚫︎ 森下安道氏&アスカインターナショナル
森下氏はサラ金のアイチの創業者。その厳しい取り立てから「マムシ」という異名を持っていて、当時起きた多くの経済事件に名前が出てくるほど。一方ではじめてオークションで絵画を購入したのが1960年と、結構年季の入った(そしてずっとオークション市場を見ていた)コレクターでもありました。
そんな森下氏が立ち上げたのが「アスカインターナショナル」。南青山に店を構えたのが89年秋。この頃にはアイチの社長を退いていて、おそらく実権は握ったままだったと思いますが、絵画ビジネスに注力することになります。
「日経アート」90年1月号や「月刊美術」90年2月号のインタビュー記事には「1年余りで絵画購入に投じた資金は約500億円」「2000億ぐらいのストックを持つつもり」「10億クラスの絵でないと面白くない。1億以下の絵はまず避けます」といった威勢のいい発言が並びます。一方で「基本エスティメートより高い金額で落札しない」「できるだけ、同じ作家でもいい時代のものを」「朝から晩まで食事もせずに数百点もの作品を値踏みする」といった堅実な面も見せています。
また、89年秋にはイギリスのオークション会社クリスティーズの大口株主になったことでも欧米の美術業界に衝撃を与えました。

森下氏にも美術館を作る構想があったようです(とはいえ一般公開するつもりはなくあくまで接待用のものだったそうですが)。「月刊美術」90年2月号のインタビューでは四谷付近に美術館を建設中だと語っています。それがおそらく92年に完成したという黒川紀章氏設計の新社屋だと思うのですが、その新社屋も94年には借入先に代物返済するために手放すこととなったようです(「週刊文春」96年2月22日号)。そしてアイチは96年に事実上の倒産となりました。

「週刊現代」2021年4月10日号によると、森下氏はアイチ倒産後も絵画ビジネスを手がけていたそうです。2021年1月に亡くなるまで田園調布の豪邸に住み運転手付きの黒塗りの高級車に乗っていたそうで、そこは金融ビジネスでのし上がった者のプライドを感じました。

⚫︎ 髙橋ビルディング
大阪の不動産会社で画廊も経営していたらしい。詳細な情報がつかめませんでした。ピカソのほかにはセザンヌ「テーブルの上の水差しと果物」を89年に1050万ドル(14億2905千万円)で落札しているようです。

⚫︎ ミナミ美術館
秋葉原電気街にあったミナミ電気の最上階にあった美術館。社長の南学正夫氏のコレクションを展示する目的で86年9月にオープン。目玉であるダリの作品は宝石とセットで展示されていました。
ちなみに作家の松浦理英子氏がミナミ美術館の「ダリ 愛の宝飾展」を訪れて書かれたエッセイが「優しい去勢のために」という本に収録されているらしいです。
当時ダリの作品で有名なものでは「ポルト・リガドの聖母」(のちに福岡市美術館が所蔵)、「ティトゥアンの会戦」(のちに福島県の諸橋近代美術館が所蔵)を所有していました。
ただ、90年当時ミナミ美術館は秋葉原にもうなかったようです。89年に新宿、その後は鎌倉へ移転したのちコレクションも売却されたよう。今となっては会社そのものがなく、現在秋葉原のビルに入っているのがあのドンキとAKB劇場です。

⚫︎ 日本オートポリス
出品作である「ピエレットの婚礼」は89年の11月30日、パリと東京を衛星回線でつないで開催されたオークションにて約75億円で落札されました。落札したのは鶴巻智徳氏。ホテルオークラで開催していたパーティーを中座して電話で入札したことも話題になりました。
このパーティーはオートポリス設立披露が目的のものでした。オートポリスは大分県にレース場やホテル、そして美術館も含めた複合レジャー施設で、「ピエレットの婚礼」は美術館の目玉として迎えられたのでした。

鶴巻氏はとにかく一般公開にこだわっていたようで、落札された「ピエレットの婚礼」は早速お披露目されます。90年3月〜4月に大分県立芸術会館での「西洋絵画名品展」ではオートポリスコレクションのひとつとして展示されたあと、4月末の開幕に合わせてすぐさま横浜美術館に向かいました。7月頭までの会期のあと、今度は静岡へ。7月末から約1ヶ月間静岡県立美術館での「ピカソ展」に出品されるという、休む間もない働きぶりでした。
そのあいだにオートポリスは着々と建設が進み、90年10月に華々しくオープンしました。その1年後の91年10月20日、内藤廣氏設計による美術館も開館しました。が、そのころには状況は悪化、資金繰りは行き詰まっていました。そもそも「ピエレットの婚礼」を支払うための金策にも苦労して森下氏に融通してもらっていただけに、既に無理が重なっていたのかもしれません。「ピエレットの婚礼」も91年の5月には担保として差し出されてしまっていたそうです。かなりの情熱とお金を注いで完成した美術館に「ピエレットの婚礼」が展示されたのは、開館してたった3日間だけのことでした。

美術館がオープンした期間は本当にわずかだったと思います。一時はF1開催も目指していたというサーキット場は再建されて現在も営業中ですが、美術館の建物は十年以上放置されたのち取り壊されました。
取り壊し前の建物の画像はたとえば下のサイトから見ることができます。立派なのに本当にもったいない、、、そう言いたくなってしまいます。


そのほかにもバブルの波に背を押されて表舞台に立っては消えていった実業家が何人もいました。
今回は直接関係ないので詳細は割愛しますが、戦後最大の経済事件と言われている「イトマン事件」も絵画をめぐる不明瞭な取引によって巨額の金が動いた事件です。
今回の記事を書くにあたって参考にした糸井恵氏の著書「消えた名画を探して」(時事通信社)ではこの「イトマン事件」に巻き込まれた絵画についても詳細が書かれています。
そのなかのひとつが、アンドリュー・ワイエスの作品。ワイエスの作品もバブルの時代に日本に入ってきていて、イトマンはアメリカのコレクターが集めた質の高いワイエスの作品群を購入していました。1995年に愛知県美術館などで行われた「ワイエス展」には、当時作品は住友銀行が管理していましたが、それらも出品されていたようです。
個人的な話ですけど、私が生まれてはじめて見た美術館の展覧会がこの愛知県美術館での「ワイエス展」でした。当時まだ中学生で何も知らずただ見ていただけなんですが、そんな背景があったことを数十年越しに知るとは、、、

安田火災海上保険が落札した「ひまわり」こそ今も日本にとどまって(SOMPO美術館に収蔵)親しまれていますが、斉藤了英氏が落札した「医師ガシェの肖像」も「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」も結局は斉藤氏の没後に家族の方が売却して海外に流れてしまいました。
その辺りにも詳しく触れられている糸井恵氏の著書「消えた名画を探して」はかなり面白いというか、名画の持つ影の部分が知れて好奇心が刺激されます。

しかし、これだけ潤沢な資金が絵画に注がれていたのであれば、その一部でも現代美術に流れたら現状がまた違ったものになっていたのでは、なんて空想もしてしまいます。もっともだからこそバブル崩壊の煽りを受けて焼け野原になるのを避けられたのかもしれませんが。果たしてこの先、日本で現代美術にこれだけのお金が投じられる日は来るのでしょうか。

〈トップ画像について〉
「ピエレットの婚礼」はオートポリス倒産後持主を転々とします。ハザマ(経営不振)→レイク(経営不振)→GEキャピタル。検索すると現在は三井住友信託銀行の所蔵と出てきますが、これは事実なのかどうか。どちらにせよ「ピエレットの婚礼」が30年近く倉庫に眠ったままなのは事実です。
糸井恵氏の「消えた名画を探して」には数年前(2001年出版の本だから90年代後半?)に東京の倉庫へ見に行ったという画商の言葉が記されています。「もともとコンディションのあまりよくない絵だったが、なんだかかわいそうだった」。

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