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陸前放浪記〜震災遺構篇

2年ぶりに宮城へ行ってきました。
メインはやはりReborn Art Festivalだったのですが、休祭日に当たった行程の1日めを中心に、各地の震災遺構を見て回りました。
2年前も同じように各地の震災遺構を見て回りました。そのときに痛切に感じたのは、まだまだいろんな場所で工事が行われていて、もうすぐ10年経つところだけれど復興が進んでいるどころかまだその前段階にいる状態なんだなということです。

そのときに見た震災遺構をまとめたnoteの記事です。
あれから2年が経ちました。10年という区切りを迎えて被災地が今どんな状況にあるのか、2年前からどう変化しているのか、この目でしかと見て回りました。

名取市

仙台空港から歩いて行ける場所にある震災遺構、旧鈴木英二邸が近々解体されるというニュースをSNSで知りました。今回を逃したらおそらくもう二度と見られなくなるでしょう。見納めのつもりで足を運びました。

相変わらずポツンと孤独なたたずまい。
この2年で新たに建った建物はおそらくありません。逆に目立つのが一面を覆っている雑草です。おそらく造成工事が終わってからほとんど誰も立ち入っていないのでしょう。何にも邪魔されずに伸びているそのさまに、この場所が見捨てられているかのような寂しさを覚えました。

建物はそこまで大きく劣化はしていないように思われます。
ただ、前回は入口近くに小屋みたいなものがあって、このお宅に関する写真などの資料が掲示されていたのですが、それが撤去されていました。変化していないように見えて、実際には少しずつ終わりに向けて進んでいるのだなと。風化しないものはない、というのは当たり前のことですが、それをどう押しとどめるかは難しいことだなあとつくづく実感しました。
2年前は工事車両も多くて近寄れなかった海岸の方へ行ってみることにしました。

残念ながら海は見られませんでした。海を遠く感じます。
とはいえ、ようやく造成が終わり、これから建物を建てる工事が始まれば、この場所もまた新たな段階に入ることができます。どんな形で発展していくのか分かりませんが、この場所に新しい未来が描かれるのを楽しみにしたいと思います。

気仙沼市

三陸道を北上して気仙沼市へ。
現在放映中のNHKの朝ドラ「おかえりモネ」の舞台にもなっている街です。見てないから分からないけど。
時間の関係で街の中心部には行けなくて、海に近いこの場所を訪れました。

震災遺構である宮城県気仙沼向洋高等学校です。

4階の辺りの壁がえぐられていますが、ここは冷凍工場が激突した跡なんだそうです。

隣の建物も大きな被害を受けています。
Wikipediaで気仙沼向洋高等学校を調べると地震が発生した直後の様子が詳細に書かれていて読み応えがあります。
学校は海岸から約500m、海抜1mの場所にあり、地震発生後すぐ約300m離れたお寺(海抜8m)に避難しますがここではまだ危険だという判断を下し、更に1.2kmほど離れた陸前階上駅(海抜16m)に移動します。この時点で地震発生から20分ほどが経っていました。
陸前階上駅に着いた頃に津波が到達、南側では津波が山の方へ迫っているのを見て更に移動、数百メートル離れた階上中学校(海抜32m)へと避難します。結果的に地震発生時に学校にいた生徒、教職員は全員無事でした。
ちなみに最初に避難したお寺は津波に飲まれて全壊したとのこと。Wikipediaを読んでいると、避難にあたった教員が適切に判断を下せているのと臨機応変に行動できているのが分かって、危機意識の高さが伝わってきました。

この高校を震災遺構として保存してできたのが気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館です。

が、緊急事態宣言が出ているということで臨時休館となっていました。そうか、休館になるのか。その可能性が完全に抜け落ちていたことに自分でも驚きですが、こればかりは仕方がない。次回への持ち越しです。

この近くに岩井崎という観光名所があるとのことだったのでついでに寄ってみました。

吹き潮というものが見られるということでしたが、この日は穏やかだったこともあり、見られることはできませんでした。

龍の松。

辺り一帯の松林も津波に飲まれたのですが、波が引いたあとに一本だけ残った松の木が龍のように見えることからそう呼ばれ、保存されていました。

海に向かって立つ力士像。

秀ノ山雷五郎という江戸時代の横綱なんだそう。地元出身ということでこの場所に建てられたのでしょうが、津波に襲われても流されずにとどまったそうで、その強さはさすが横綱。まるで津波に立ち向かうかのような立派な雄姿でした。

向洋高校もそうですが、私以外にも観光客が途切れずに訪れていて、皆さんやはり被災地に対する関心を持っていらっしゃるのだなと。自分勝手な言い方ですが、心強さを覚えました。

ただ、防潮壁はなかなかの高さで、海と隔絶されている感覚はやはり常につきまとっていました。

陸前高田市

三陸道を更に北上して岩手県に突入です。
まず訪れたのは、道の駅高田松原です。

高田松原津波復興祈念公園内に位置するこちらの建物は道の駅と東日本大震災津波伝承館が入っていますが、こちらの伝承館も緊急事態宣言のため休館中。しかも公園も封鎖されていて奇跡の一本松の近くまで行くことも不可。
がっかりしつつ、しばらく周辺を散策することにしました。
先ほどの道の駅にほぼ隣接する位置にあるのが、旧道の駅高田松原「タピック45」。

上の方に表示が貼られていますが、この場所を襲った津波の高さは14.5メートル。想像を絶する高さですよね。恐ろしい。
この辺りは公園として今後整備されるようで多くの方が作業されていました。

運動公園を挟んで反対側に位置するのが旧下宿定住促進住宅です。

こちらも4階の天井近くまで津波が来ています。4階と5階の落差が激しくて、津波の威力をまざまざと感じさせます。

街の中心部へと行ってみます。
陸前高田駅。

かつてはJR東日本大船渡線の鉄道駅でしたが、津波に遭い鉄道からBRTというバス路線へと転換されました。
私が辺りをふらふらしていた時間は結構頻繁にバスが来ているように見えました。

駅の近くにあった建物。

木の存在感を否が応でも感じる、、、設計はまさか、と思っていたらその通り、隈研吾氏でした。
こちらは陸前高田アムウェイハウス まちの縁側という施設です。

子育て支援施設、障がい者就労支援カフェ、社会福祉協議会、観光物産協会の4団体が入居する交流施設なんだそうですが、アムウェイってあのアムウェイなの?
先ほどの画像を見ても分かる通り、建物全体が門のようになっていて、中央の空いたところからポツンと建物が残っていました。
建物を抜けるとこんな景色が広がっていました。

こちらも震災遺構の米沢商会のビルです。

屋上の更に上の位置まで津波が来たようです。
気になったのは地面の高さ。建物の入口は道路から少し下ったところにあります。おそらく震災後に道路を敷く際に道路の部分に盛り土をしたのでしょう。

米沢商会からまちの縁側の方を見ると、こんな感じ。

1〜2階ぶんぐらいの高低差があります。震災後の街づくりの際に盛り土をした、ということでしょうか。それだとしたらかなり大がかりな工事だったことだと思います。

ふたたび高台の市街地を歩きます。
こちらは陸前高田市立博物館。

設計は内藤廣氏。建物は完成していて、今はコンクリートなどが放つ有害物質の濃度を下げる「枯らし期間」に入っています。来年秋以降にオープンの予定とのこと。

こちらは陸前高田市民文化会館奇跡の一本松ホール。

設計はNTTファシリティーズ。
ホールのある交差点にはこんな看板が立っていて、QRコードを読むとかつての街の姿が出てきました。

それがこちら。

奥にはタピック45、そして海岸を遮るようにずらっと並ぶ松原が見えます。これが全部なくなってしまった、という事実はやはり、どれだけ震災遺構に触れたところで、実感として受け入れることはできるはずがありません。そこは地元の人にしか理解し得ないことなのだと思います。

そんな震災前の景色に近づいているかと言えば、高台の街でさえも、茫々とした景色が当たり前のように広がっています。

復興というのはまだまだ先のこと。
本当に、心からそう思います。

さて。奇跡の一本松が近くで見られなくてしょぼくれていた私ですが、諦めきれずに道路をうろうろしていたら遠くからかろうじて見えるスポットを発見しました。

隣はユースホステルだった建物。こちらも震災遺構として保存されています。

道の駅のそばを流れる気仙川の対岸にも、もうひとつ震災遺構があります。

陸前高田市立気仙中学校です。

緊急事態宣言発令中で敷地内に入れなかったのですが、普段は建物の間近まで行けるのでしょうか。

この辺りからも奇跡の一本松が見られました。

奥にはタピック45も見えます。
このアングルは新聞で見たような覚えがあります。ここから撮っていたんですね。

次回はぜひとも間近で眺めたい。新たな目標ができました。

南三陸町

のんびりし過ぎてすっかり日が暮れてしまいましたが、三陸道で南三陸町まで戻ってきました。
2年前は工事中だったところも南三陸町震災復興祈念公園として完成して立ち入れるようになっていました。

旧防災対策庁舎も間近で見ることができました。

鉄骨がいとも簡単にひしゃげてしまう、津波の勢いの強さをまざまざと感じました。
隣にあった建物は基礎だけが残されていました。

あっという間に暗くなって明かりが点きました。

奥に見える祈りの丘は町内を襲った津波の平均的な高さになっているそうなんですが、その高さは実に16.5メートル。想像するだけで恐ろしくなります。
日が暮れていることもあって公園には人もまばらだったのですが、学校帰りと思しき制服を着た一組の男女がいて、青春だねえ、と思わず目を細めながらその様子をしばらく眺めていました。

八幡川を挟んで公園の反対側に2年前も訪れた南三陸さんさん商店街(隈研吾氏設計)があるのですが、そちらへ行くための橋が新たに架けられていました。

中橋と呼ばれるこの橋、両側と中央でルートが変わって、思わず両方通ってしまいました。

木を多用したこの橋もまた隈研吾氏の設計。高台移転で伐採したスギの木が使われているそうです。
川向こうの南三陸さんさん商店街はもう閉店の時間かなと思っていたら煌々と明かりが灯っていました。

ラジオの音声の合間に人の声も聞こえてきて賑わっている様子。その声を聞いてほっとする自分がいました。

女川町

Reborn Art Festivalの会場にもなっている女川町も2年前とは景色が変わっていました。
いちばんの変化は震災遺構の女川交番周辺の工事が完了していたこと。

交番を囲むようにスロープがぐるりと一周しているのですが、道路との高低差を埋めつつ建物を目立たせない壁のような役割をしていて、「建物を目にすると辛い記憶が蘇るから残して欲しくない」と思う住民の方の心情にも配慮しているのかなと。良い設計だと感じました。

ここでも津波の威力を感じさせます。
地中に埋まっていた杭ごと横倒しにしているから相当なものです。

港から女川駅に向かう通りは2年前と変わらず。

ただ、駅に併設の温泉施設「ゆぽっぽ」は今年5月1日に起きた地震の影響で温泉の営業を停止しているようでした。

大丈夫でしょうか。早く再開されることを願っています。

ふたたび港の方へ。
港周辺は公園になっていて、スケートパークができていました。

実際にスケートをしている少年がいました。今夏のオリンピックで注目を集めたことだし、若い人が集う場所になればいいな。

伝承の鐘。

女川町観光協会の「きぼうの鐘プロジェクト」の趣旨に賛同してサッポロホールディングスが寄贈したもの。これで四基めなんだそうです。公園で遊んでいた親子連れが鐘を鳴らす微笑ましい風景が見られました。

女川は中心部が海に接していながらも防潮壁を作るという選択をせず、そのためスケートパークや伝承の鐘のすぐそばに海が広がっていました。

漁船が並んで停泊しているほか、近隣の離島との連絡船の発着所もありました。
海は深い青色がとてもきれいでした。雄鹿半島では海の色を表す「コバルト」という言葉をいろんな場所で見かけたのですが、これがコバルトブルーなのかな。とても美しい色でした。

石巻市

女川から海岸沿いの道路を北上すると、雄勝地区に入ります。雄勝は半島のように湾に突き出していて、その根本に当たる場所に「道の駅 硯上の里 おがつ」があって、そこに立ち寄ってみました。
雄勝は硯の産地として有名なところなんだそうです。

道の駅は海沿いに作られているのですが、海面からかなり高い位置にあります。目の前に広がっているのに心理的に海が遠く感じられます。

この日の海は本当に穏やか。気持ちが良くて、ずっと眺めていたくなりました。

道の駅にチラシ置場があって何となく手に取ったものを見てびっくり。

安井鷹之介さんが雄勝で滞在制作されるのだそうです。残念ながら会期が重なっていなかったのですが、雄勝のことをもっと知りたかったし、滞在制作の様子も覗いてみたかったです。

そして雄勝から意外と近くにあったのがこの場所です。

大川小学校です。
今回は訪問は無理だと思っていたのですが、上手い具合に日没前に滑り込むことができました。

こちらも震災遺構としての工事は完了していて、前回にはなかった施設ができていました。

大川震災伝承館です。もちろんと言うのか緊急事態宣言発令中につき休館していました。

この日は他に誰もおらず一人でした。

2年前もこれぐらいの夕方の時間に訪れましたが、数組の見学客がいて、おまけに語り部の活動をされていると思われる地元の方もいらっしゃいました。そのせいか何だかざわざわとした印象があったのですが、今回は私ひとりだけ。妙に静かでもの寂しく感じられました。
そう言えば、学校の横を通る道路も、前回はダンプカーが頻繁に通っていたのですが、今回は交通量が少なくてひっそりとしていました。

もちろん建物は手つかずですが、周辺がきれいに整備されたことで、混沌さがなくなってすっきりしたように感じられました。

とはいえ、津波のすさまじさへの衝撃は、どんなに時間が経っても薄れることはないと思います。この渡り廊下の惨状は何度見ても驚かされます。

そして多くの幼い命が奪われてしまったこと。
自分が地震などの天災、または事故に遭遇したときに自分は正しく動くことができるのか。そのためには普段何をしなければいけないか。日ごろから考えなければならないと思います。

新しく設置された看板には、お子さんを亡くされた保護者の方でしょうか、こんな言葉が載っていました。

2011年3月11日
いつもと同じ朝でした
「行ってきます」の後ろ姿を見送ったあの日
「寒かったでしょう」とあたたかい手で抱きしめてあげたい

思わず涙があふれ、こぼれてしまいました。

さて。最終日には石巻の市街地に来ました。
今年3月に開園となった石巻南浜津波復興祈念公園です。
まずはこちらの看板が目に飛び込んできました。

初代の看板は震災から1ヶ月後の2011年4月11日にこの近くに建てられました。当時の写真が看板に載っていたのですが、津波で押し流されてきた車や木、住宅の木材や畳などで埋め尽くされていて混沌とした状況でした。きっとこの看板を作られた方は自分の気持ちを奮い立たせるためでもあったんだろうな、と感じました。

その奥に広がる公園部分を歩いてみます。
歩いていると違和感というか、ざわざわとした気持ちが込み上げてきました。何だろうと思っていると、通路の交差点に立っている看板が目に止まりました。

看板には震災前の往来の様子が載っています。
どうやら公園内の通路は震災前の道路の位置をそのまま残しているらしい、というのが分かってきました。違和感の原因もここにあるのだなと。あるはずのものがない、という感じです。
なかには建物の基礎をそのまま残した場所も。

奥に見える日本製紙の石巻工場とのあいだにたくさんの住宅があったことが看板の写真から分かります。

公園内には池もあったのですが、それは津波のエネルギーで地面が掘られて湿地になった場所なんだそうです。それも震災遺構として残しているんだとか。

公園内には東日本大震災メモリアル 南浜つなぐ館という施設もありました。

こちらも残念ながら中に入ることはできず。次回への持ち越しです。

公園のそばにはMEET門脇という施設も。

震災の記憶を伝承するとともに防災学習にも力を入れた展示内容になっているそうです。こちらも次の機会にお邪魔してみたいです。

そして門脇小学校。

前回は手つかずのまま取り残されていましたが、ようやく保存の方針が決まったようで、工事がはじまっていました。

隣に建っている建物が資料展示のスペースになるのかもしれません。そしてその建物と校舎のあいだにあるのが観察棟でしょうか(震災遺構としてオープン後も校舎内は立ち入りができず観察棟から内部を見学する形になる予定とのこと)。来年3月に工事を終えて、来年度中には立ち入れるようになるそうで、その際にまた訪れたいです。

中心部には石巻NEWSee(ニューゼ)という石巻日日新聞が運営する小さな博物館があります。

こちらの展示物で目を引くのが、何と言っても、手書きの壁新聞です。

号外扱いで発行されたこれらの新聞は、情報が錯綜するなかで地元の方がたの大きなよりどころとなったことと思います。
3月12日号(左)では「鮎川浜全域が壊滅状態」、3月13日号(右)でも各地が壊滅状態というショッキングな文字が見られます。一方でライフラインは電気から復旧するという情報も載っています。

3月14日号。東松島市では行方不明者が1千人近くいて女川町では10メートル近い津波で高台にある施設を残して壊滅状態という情報とともに、支援物資が全国から届いていること、また別紙ではどの避難所にどのくらいの人が避難しているかの数字が書き連ねられています。なかには2000人も避難している学校もあるのには驚かされます。

3月15日号(左)、3月16日号(右)。「女川町5千人安否不明」という恐ろしい情報もありますが、大変な状況のなか前を向こうとしている様子がよく伝わってきます。

3月17日号。電気の復旧が進み避難所にも通電開始という明るいニュースが載っています。地震発生から約1週間。この1週間は本当に過酷だっただろうなと思わずにはいられません。

今回Reborn Art Festivalでは日和山にも作品展示があったので日和山にも登りました。

地震起きて津波が襲ってきたあの日、ここに避難した多くの人たちが、それまで自分たちが営んできた生活があっという間に崩されていくのを目の当たりにして絶望したのだと思うと、余所から来た人間がのんびりした気持ちでこの風景を眺めているのが申し訳なく感じてしまいます。
画像の中心の辺りには、2年前Rebornで網地島に渡ったときのフェリー乗場があります。当時から行われていた橋の工事はまだ継続して行われていました。ですが、あと数年もすればきっと工事も終わるはずで、そこから石巻の本当の意味での復興がはじまればいいなと、心よりそう願っています。

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