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2024/05/19-2


 昨日は埼玉から長野までドライブして車中泊、からの今日は富山まで来ました。なんだかいつの間にか着いたって感じだ。久しぶりのはずだけど、久しぶりの感じがしない。

 途中でGoogleマップの示すルートで「こんな道で行けるのか?」という道があり、案の定行けなかった。万能ではないよね。フロントガラスの前にある行き止まりの道をみた自分の反応が「ふむ。」だった。賢さんの「ほう。」や「ほほう。」に近いな、と思った。

【引用はじめ】
長谷、という住所にある、スリランカカレー屋さんに、前々から行きたいと思っていたので向かったら、閉まっていた。「ほう。」再び歩き出すと、半袖のシャツを着ていた私の腕に、鳥のフンが降ってきた。「ほほう。」私はこの「ほほう。」は、《ほう。さっきの「ほう。」より強いのか。》と思った。
【引用おわり】

 「ほうほう」言ってて鳩みたいでかわいいね。あ、ふと、埼玉を出発する前、スーパ銭湯にパートナーと行き、お風呂上がりにパートナーが話してくれたことをふと思い出した。

「『あれも叶った!これも叶った!』と喜んでいるうちは、自分の自覚できる範囲の願望だけが実現しているように感じられている状態で、本当は全部そうなんだから、もったいないよって話を前にゆうさんがしてたけど、今日も不思議とうまくいってるなってことがいくつかあって、でもそれに対して前ほど喜んでない自分がいて。「そっかー」みたいな。イベントからの帰りの電車、座れなかったのね。『座れないことを望んでたんだ』って一瞬考えて、あ、そうじゃなくて、『電車の中で立ちたかったんだ』って分かった。イベントで久しぶりに立ててるー!って感じれたから、それを試したかった。否定じゃなくて、肯定的に願望を捉えたら、「そっかー」みたいに、当たり前になったっていうか」

 たぶん、こんなことを言っていたと思う。だいぶん変わってそうだけど。

 目の前にあるものは、全て自分の望んだものだ。それを証明する必要はない。それが真実である必要すらない。そう感じられるときに、やってくるものがある。それが訪れれば、「目の前にあるものは、全て自分の望んだものだ」が方便だと分かる。いや、方便である必要があるんだ、と気づく。

 老子の話にこんなのがある。老子は無口だった。毎朝、老子は散歩する。老子を尊敬する隣人は、一緒に散歩することを日課にしていた。数時間の散歩は、終始無言だった。あるとき、隣人が同じく老子を尊敬する友人を散歩に連れてきた。老子は黙って歩いた。隣人も黙って歩いた。しかし、友人は沈黙に耐えられなかった。朝日が昇ったとき、友人は堪えきれず言った。「朝日のなんと美しいこと!」。散歩の間、話されたのは友人のその言葉だけだった。散歩が終わると、老子は隣人に伝えた。「あのおしゃべりは、もう連れてこないでくれ。朝日の美しいことは、見れば分かる。わざわざ言う必要はない」。

 「あ!これ欲しいって思ってたやつ、もらえた、やったー!」とか「これ、前にあったらいいなって思ってたの、手に入った!」と喜んでいる姿は、とても微笑ましく、そばにいる人は「よかったね〜」とニコニコしておけばいい。ぼくも基本的にはそうだ。でも、それで終わらない時もある。「まぁ、それ言ったら、全部そうなんだけどね」とか、もっときついと「わざわざ言わなくても、いいよね、それ」とかになる。

 朝日は綺麗で、言う必要はない。花は綺麗で、言う必要はない。言えば朝日は別になる。言えば花は別になる。朝日と花は、分かれていない。

 目の前にあることは全て、自分の望んだものだ。「これが叶った!」と言ったとき、「これ」以外は全て「叶っていない」ことになる。それはもったいない。でも、それならまだましだ。今の自分の状況について「こんなはずじゃない!」と言い出すのは、よくあることだ。そのときには、「これ」すらも叶っていない。何も叶っていないことになる。ことに「できる」。

 目の間のことが何も叶っていないとする「こんなはずじゃない!」の構えは、この流れで書くと悲惨に聞こえるだろうが、現代社会ではむしろポジティブに捉えられ、奨励される。「今の自分に満足してていいんですか?」、「あなたは何かを達成したんですか?」。これは「こんなはずじゃない!」の言い換えだ。「いまのわたしは、本当のわたしじゃない」という認識が、モチベーションと呼ばれるものの正体だ。現在の否定が、人を達成に導く。達成は、次の達成の種、つまり「こんなはずじゃない!」を蒔く。人は次々に達成し、豊作の気分だろう。しかし、実際のところ、その豊作は未来の中だけにある。現在はといえば、何もない。見向きもされず、枯れ果てている。

 達成は未来に咲こうとする花だ。その花は枯れることがない。なぜなら、咲いたことがないからだ。咲かなければ、枯れないからだ。咲かないことが、何よりの魅力だ。永遠に思える。しかし、それは咲いていない。咲かない花は、果たして花だろうか?

 現在だけに花は咲く。そして枯れる。刻一刻と咲き、刻一刻と枯れる。花は「綺麗なお花だこと」と愛でられようが、「こんなの花じゃない!」と否定されようが、咲いて、枯れる。それが花だ。咲かない花は、花ではない。枯れない花は、花ではない。愛でられたり、否定されることで、花は花でなくなったりはしない。

 あなたが花だと言っている。わたしは花だと言っている。歩いて出向いたカレー屋さんが休みでも、あの時の願望が目の前にあっても、Googleマップが通行止めの山道を指し示していても、せいぜい、言えるのは「ほう。」くらいのことだ。過不足なく、すべてここにある。花は咲いている。

 さて、目の前のことが「花」であり、「わたし」が「花」であるとき、「花が咲く」の主語は「花」だろうか?

【引用はじめ】
私は先程も書いたスリランカカレーの店に向かう道中で、文脈は全く覚えていないが、文脈があるのかどうかもわからないが、英語の it が気になった。この時に初めて気になったわけではない。事あるごとに、度々、去来する。中学校で、「それ」と訳すことが多いと教わる人がほとんどだと思う。いわゆる、指示語である。“If it rains tomorrow, (明日雨なら)”、“It's 10 : 30.(十時三十分です。)”ーー「それ」という訳語を当てたら、明らかに、日本語として、おかしい。それはわかる。それより、これらの it は、なぜ、日本語では、訳出されない・できないのだろうか。これらの it は、何を、指し示しているというのだろうか。ものの本には、「天候を表すit」だとか、「時を表すit」だとか書かれている。もう一度言う。最後通告だ。一体、何を指し示しているというのだ!!!
【引用おわり】

 これは形式主語と呼ばれる言語現象で、言語学の生成文法という枠組みでは、このitの位置には深層においては「何もない」のだが、「文の中に主語は必須だ」という決まりを持つ言語、例えば英語において、その決まりを守るために挿入され、表層に現れるものだと考えられている。日本語などは主語が必須ではないので、深層における「何もない」がそのまま表層に実現されるため、形式主語は観察されない。

 つまり、itが指すのは「何もない」だ。ここに、賢さんの察知した文脈がある。

 目の前のことが「花」であり、わたしが「花」であり、一切合切が「花」であるとき、「花が咲く」の主語は「何もない」。英語で言えば、it flowersだろう。深層においてはflowersという動詞しかない。動詞だけの文。日本語であえて言えば、「花咲く」だろうか。動詞だけの世界に、全てが移ろいゆく場所で、「花咲く」。

【引用はじめ】
いい奴だと思ってもいい。悪い奴だと思ってもいい。しかし、いい奴だと思う前、あるいは、悪い奴だと思う前、私は、その段階を、強いて言えば、切り取りたい。エゴだ、という声が瞬時に浮かぶ。見つけた。これは、私は納得感を持って、「これは私のエゴだ。」と言えるし、また、「私は、これがやりたい。」とも、本心で、そう言える。私は、それが好きだ。好きだから、好きだ。
【引用おわり】

 一瞬一瞬を新しく生きたい。その真実を自分の生に許したい。それはとても利己的なことだ。受動性の極地だ。約束もできない。予測ができないからだ。「花咲く」ことしかできない。だとしたら、それは利己的ですらない。己がないからだ。エゴがないからだ。エゴがないとは、「花咲く」ことに他ならない。「いまここで満足」を声高に言うこともなく、何が起きてもせいぜい「ほう。」。鳩みたいなもんだ。「ほうほう」言ってれば、かわいい。

 静かな賢さんの文章を読んで、ぼくもお腹がいっぱいになった。ご馳走様でした。次のご飯も待ってます。

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