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並行書簡-01

賢さんの小説風日記(伊藤雄馬編-16)を読んでのぼくこと伊藤雄馬の感想だったり、または感想でなかったりするものを書きます。これを「並行書簡」と名付けました。往復書簡のもじりです。

一緒に何かしようか、そんな話が出た数ヶ月前、往復書簡のようなものをしてもいいかもね、と話したものでしたが、それも遠い過去のような、別世界のことのように感じます。「往復書簡をしたいね」と口にしている自分にまったくシンパシーが沸かないからです。全然、ない。

往復書簡は相手の書いたことに対して、何かしらのリアクションをもってその返答とし、それを交互に繰り返す形で成立する一つの作品です。宮本輝の小説『錦繍』とかはその代表でしょう。この小説を紹介してくれた大学の先輩は「美しいのだけど、こんな長い手紙のやり取りがあってたまるか、とは思う」と言われてぼくに小説を貸してくれましたが、それを読んでぼくは「美しいのだけど、こんな長い手紙のやり取りがあってたまるか」と思った記憶があります。

『錦繍』は男女の往復書簡により、ふたりの感やら情やらが、どこまでも煮詰まり、焦げつき、結晶化するそのプロセスと、またはその出来上がった結晶の微視的にみたときに現れる幾何学模様の普遍性に心を打たれるわけですが(そうなの?)、ようは往復書簡の目的はこの煮詰まりにあるように思えるわけです。

煮詰まりは、相手に正対するときに起こります。真正面から向き合うこと。これをぼくは「0度の関係」と呼びます。

「0度の関係」では、関係は距離のみになります。近いか遠いか。これはよくある表現だと気付かされます。「お近づきになる」とか「しばらく距離を置きましょう」のように、人間関係は距離によって表されます。良い関係は近く、悪い関係は遠い。雑に言えばそうなります。

この遠近のグラデーションの中に、最適な距離がある、という信仰が人間関係を語るときには前提としてあるようです。そのように距離をもって人間関係の語られるとき、つい見落としてしまうものがあります。それが角度です。

同じ距離にいる2人でも、向く方向を変化させることで纏うものは変わります。中学時代、授業はみんな黒板を向くので、横の生徒は横目に映る角度でした。それが給食の時間になると、ガタガタと机を動かし、向かい合わせにして食べました。その方が、なんか一緒に食べてる感を演出できるからでしょう。でも、距離だけ見れば、授業と給食では隣の生徒との距離は変わらない。変わったのは角度だけです。これだけ見ても、距離だけで人間関係を捉えることが不十分だというのが分かります。

給食時のように、相手と自分がお互いを見合う角度を「0度」とすると、授業中のように、相手と自分が同じ方向を見る角度を「90度」とぼくは考えます。そしてぼくは、この「90度の関係」こそが、これからの時代の典型的な人間関係の角度になるのだと考えています。

これは言い換えると、距離の人間関係から角度の人間関係への転換と言えます。距離の人間関係(つまり「0度の関係」)は、近くに住んでるとか、職場や学校が一緒とか、そういう距離の近しさによって生まれるものです。これまではそれが普通でした。でも、これからは、距離に関係なく、角度が同じ、つまり同じ方向を向いている人同士(「90度の関係」)こそが、人間関係と呼べるものを成す、角度の人間関係の時代になりつつあるのではないでしょうか。

「90度の関係」にある者どうしは、何も往復させることができません。相手は横を走っていて、そのレーンは交わらないからです。

陸上競技では、100メートルから400メートルまではレーンをはみ出ることはありません。ずっと自分のレーンを走ります。だから、「第一レーン、〜くん」などレーン番号で選手が呼ばれます。一方で、1500メートル以上は、レーンを分けません。なので、腰ゼッケンと呼ばれる番号を、その名の通り腰につけ、選手の識別を行います。

「90度の関係」は、400メートルのように、それぞれがそれぞれのレーンを走る、という感覚に近いです。相手の走る姿やペース、あるいは呼吸などを感じることができますが、やることは自分のレーンをただ走ることです。それ以外はできません。相手のレーンに入れば、自分は失格ですし、相手に迷惑もかかる。

賢さんは小説風日記(伊藤雄馬編-16)で、「自分の人生に集中しろ」と書いています。「自分の人生に集中」する人は、往復書簡に向かない気がします。『錦繍』に登場するふたりは、往復書簡に熱中しますが、明らかに自分の人生に集中できていない。なにせ何万字という手紙を長い時間をかけて書き上げ、それを何回も交換しあう訳ですから。もっとやることあるだろ、と今の僕は思うし、賢さんも思うはずです。

そんな賢さんとぼくが何かを一緒にやるとしたら、それは往復という0度の関係ではなく、90度の関係、つまり相手を横目に見ながら、自分のレーンをひた走ることしかありません。それはもう往復書簡ではなく、交わることのない、並行書簡としか呼びようのないものになるでしょう。

むりすんなよ