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並行書簡-24

原稿を先月末に書き終えてから、久々に賢さんの家に行って、ご飯をご馳走になった。賢さんの家に行く前日のトークイベントで、打ち上げのあと、ひっそりと終電を逃し、ぼんやりと力みなく完徹して行ったら、

「なに疲れてんだよ!」

みたいなことを玄関で賢さんに言われた(もう少しやわらかい言い方だった気もする)。

賢さんの家で食事をする予定のあるときは、なぜか「不調気味」で行くことになる自分がいる。今回のように寝不足だったり、風邪気味だったり。そして、ご飯を食べて元気になるところまでがセットだ。この日も、ご飯、お味噌汁、塩麹の漬物に、おかわりは卵かけご飯をいただき、いつも通り、疲れと眠気が和らいでいた。

「ご飯食べるとだいたい眠くなるのに、賢さんのご飯は眠くならないよねぇ」

ぼくがそういうと、漫画家が自分の漫画がアニメ化された映画を友だちと一緒に観に行った後の感想が「漫画が原作らしいよ」だったときのトーンで、

「なにを食わしてると思ってんだよ!」

みたいなことを言われて、笑った(これこそ、もっと違う言い方だった気もする)。ぼくはなにを食わされているんだろう?

そのあと、干したさつまいもとかぼちゃでコーヒーをいただきつつ、書いた原稿の話や、最近のことなどをのんべんだらりと話した。

ある程度まとまったものを書いたあとの人は腑抜けになるのか、賢さんも自分も構造のある話、いや展開のある話をする流れにはならなかった。それでも、なにか次の展開を予感するところもあり、それを寝転がりながら遠目に横目に見据えつつ、それが訪れるのをぼんやり待っていた。あるいは、空間に散漫なそれの密度が高まる点を探っていた。

もう日も暮れかけたころ(6時間くらい経過していた)、ディクテーションの話になった。

ディクテーションというのは、口述筆記と訳されるもので、語学学習の文脈でよく用いられる。耳で聞いたものを、文字で書きとる勉強法だ。かなり疲れるので、やった感を得たい時に向いており、それ以外には向かない(個人の感想です)。英語講師時代、ゲーム性を加えたディクテーションを提案してみてはいたが、採用する学生は歴代で一人だけだった。その学生はぼくが用意するタスクを全部やってしまい、先生側にまわるくらいのやる気のある学生だった。その学生でさえも、「ディクテーションは辛いです」とこぼすほどのものだ。

ディクテーションが辛いのは、人が言語から意味を得るときに、形式は捨ててしまうからだと最近の理論では考えられている。何十回と見返している大好きな映画の、大好きな台詞があったとしても、多くの場合は、台詞の意味を思い出すことに比べて、台詞の一言一句を正確に思い出すのは難しい。

ぼくが賢さんの言ったことのだいたいのニュアンスをもって再現できても、どんな言葉遣いかは覚えていないのも、その表れだろう(といえば言い訳になるかもだけど)。

大学院時代に受けた講義で、「言語から意味だけ取り出して、形式をピリピリ〜って剥がして、ポイってする」みたいな言い方を先生がしていた。これも、その映像は画角と共に思い出せるのに、その時の先生の正確な台詞は思い出せない。これも、「ピリピリポイ」に相当するだろう。ただ、その「ピリピリポイ」の効果音は、その仕草とともによく覚えている。オノマトペのような語は少し違うのかもしれない。

ディクテーションが辛いのは、普段は「ピリピリポイ」するものを、大事にとっておこうとするからだ。そりゃ、辛いのは当然だろう。「事業に関わるレシートは必ず保管してください」と言われても、普段からレシートを「ピリピリポイ」する人には難しい。いや、できる人はできているので、これはちょっと違う話かもしれない。なんだか言い訳が多くなってきたな。

ともかく、ディクテーションとはそういうものだ。そして、小説を書いたり、原稿を書いたりする行為は、ディクテーションのように感じられる瞬間が二人には共通してある、ということが語られた。この「語られた」という表現もそれを示している。つまり、ディクテーションの話題を出したのは我々ではない、という感覚が自分にはあり、また賢さんにもあるのだ。

それは例えば、お互いがそれぞれ別の場所で書いている場合でも、同じタイミングで同じことを書いていたり、考えていたりすることが重なると、その気持ちが強調される。むしろ、そんなことばかりだから、重ならないところに注目した方が効率的なほどだ。

フロイトは意識と無意識を分け、ユングは無意識を個人的無意識と集合的無意識に分けた。賢さんと自分は集合的無意識によって繋がっている、といえば世間的には通りがいいのかもしれないが、実感しているところをかなり取りこぼしていると言わざるをえない。分けて分けて、これはこっち、あれはあっち、としている先に、しっくりくる瞬間は待っていないのは明らかだ。

賢さんはその難題について、出汁巻き例に語ってくれた。

【引用始め】
 (前略)私は、私一人で書いているわけではない。もう、私には、何人で書いているのかも、わからない。当たり前に、学校の授業などで出席者の人数を数えたりするのと同じ要領で、“四人”とか、“百人”と、明確に、数えられるものなのか、わからない。
 生卵を、六つ、ボールに、割ります。はい、もう、数えられません。“一個分”とか“二個分”とか、そういう言い方を便宜的に用いることは可能ですが、「卵が“一個”、卵が“二個”…」と数えることは、できません。
 比喩だけで、延々と書いてしまって、すみません。私は、「書いてしまって」どころか、「書き殴ってしまって」と言ってやりたいくらいです。それくらいの気持ちで、書いてしまいました。
 出汁巻き用にスタンバイし、“あとは焼くだけ”となった卵や出汁や、調味料たちは、言葉の上では、“卵”とか、“出汁”とか、“醤油”とか、分けて記述することはできますが、でも、もう、取り出せないんですよ。嘘だと思うなら、出汁巻き、やってみなさいよ!

 言語化は、できるかもしれないし、できないかもしれない。この際、それは、どちらでもいい。重要なのは、たとえ言語化できたとしても、もう、一度混ぜられた卵たちは、元には戻らない、ということだ。おいしく食べようじゃないか。
 しかし、それは、卵の例えだとそうなるだけで、もしかしたら、やっぱり、“キャラクター”と“プレイヤー”と“プログラマー”は……
 いや、できないだろうな。できる気が、全くしない。私は、言葉でこうして“プログラマー”へのアプローチを毎日試みているが、それは、“いくらやっても、できないものは、できない”ということの確証や確信が欲しくて、やっているような、そんな気がしている。
【引用終わり】

「書く」という行為は複数の存在が関わって行われている行為と感じらる。それと同時に、「書く」という行為を複数の存在の分担作業に分けてしまうことにも違和感がある。「書く」前に何かを受け取っている感覚がある、つまりディクテーションをさせられている感覚がありつつも、ただそれを「ディクテーションです」と言い続けることに対する違和感。この違和感において、賢さんとぼくのベクトルが方向を揃えたのでした。

そのパズルを解きほぐすのは、キャラクタ、プレイヤ、プログラマに加えて、肉体の位置付けを考える必要がある、と賢さんとのご飯を食べた数週間後のいま、考えているのでした。

前置きが長くなりましたが、続きはまた明日。

今日もありがとうございます。

むりすんなよ