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2024/05/12

【引用はじめ】

「最近、タツヤくんが、ぁ、タツヤくんには五歳の一人息子がいて、で最近会った時に、四人行こうと思ってる、て言ってたのよ。どういう心変わりかはわからないし別に聞く気もないけどとにかくそう思うようになったらしくて、そんで今二人目妊娠中だからね。妊娠してるのは奥さんの方ね。」

雄馬さんがすかさず

「わかるわ。」

と大きな声で言って笑いながら、体を揺らした。雄馬さんは時々、大きな声でツッコミを入れてくれる。私は、“私がボケたら雄馬さんがツッコミを入れてくれる”というよりも、“雄馬さんがツッコミを入れたら私の発言はボケだったのか”と感じたり、発見したりしている傾向がある。

【引用おわり】


賢さん語の話だよね。オゾネ語の方が語呂がいいかも笑

今回のオゾネ語は「妊娠してるのは奥さんの方ね。」です。どうやったらこんな台詞が言えるんでしょうね。なかなか言えないもんな〜。これをさらっというためには、「妊娠するのは女性だ」っていう前提のない領域があることを意識する必要があるんだと思うんですよね。

「妊娠するのは女性だ」って、当たり前っちゃ当たり前なんだけど、その当たり前は、ぜーんぶ各自が各々で採用するかどうかを決めてるみたいですよ、話す前の刹那に。どんな信念を採用するかを決めないと、言葉っていつまでたっても形にならないんですよ。「0」を決めないと、数えられないって話をしたけど、それと同じ。どんな言葉にも、その人が採用する信念が隠れている。

「妊娠するのは女性だ」とかもね、それは科学的な事実じゃないの? とか思うところもあるけれど、この世界、何が起こるかは分からないわけですから。シュワちゃんが妊娠出産する映画とかありませんでしたっけ? 科学的事実と呼ばれているものも、絶対ではない以上、信念には違いないわけです。それを採用するかどうかは、その人がその都度決めることなんですよね。

そんで、「妊娠するのは女性だ」のような「常識的な」信念は、無自覚に採用されることで、小慣れた会話が日々繰り広げられているわけですが、ことオゾネ語においては、何が常識かどうかが柔らかいので、そこも一つ一つ「審査」が行われるわけですね。賢さんのnoteがあっちこっちしているように見えるのは、その信念の採用の審査を言語化してくれているから、というのが一因でしょう。普通は気づかないか、その領域を言葉にすることを躊躇います。ちょっと恥ずかしいかもしれないしね。

信念のある領域をメンタル体と呼んだりしますが、自我は基本的にその領域にはアクセスしたがりません。思い込みとか、欲望とか、そういうものの集積だからね。生々しいというか、直視しづらいというか。おーちゃんはそのメンタル体の領域を「ちょんちょん」してくれてるっぽくて、セッションを受けると自分だと見づらい信念に気づけるようになるんだと思うよ。しかもピンポイントだからさ、「うわ〜すごいなぁ、的確だなぁ」ってのが何回もあった。それが可能なのも、メンタル体よりさらに緻密な領域にあるコーザル体のエネルギーが見えてるからなんだろうけど、そのあたりにアクセスする意識ってこんな感じなんだなってのを体験させてもらった気がする。

コーザル体は、現象化前のエネルギーが相談してる場所っていうのかな。その領域で「こんな風にやってみましょうか」ってのが決まったら、その現象に必要な役回りをしてくれる人のメンタル体に信念が生まれて、劇が始まる、みたいな。そんな仕組みっぽいんだけど。それがおーちゃんと会ってからよく感じられるようになってねぇ。なんでそんなことが分かるのかは、ぼくも分かりませんので、聞かないでね。

賢さんに会った次の日に、ポッドキャストの収録があったんだけど、ポッドキャストの最初の挨拶で、ぼくが「ご飯食べた?」って聞くのね。それに対して、パーソナリティの小澤さんが何かしらの返答をするのが決まりなんだけど、たま〜に番狂わせがあって。つまり、小澤さんが「ご飯食べた?」って言うことがある、事前にぼくに伝えずにね。ぼくは大体慌てちゃって、「びっくりしたー!」みたいなことしか言えなくて、うまく返事できないんだけど。その日も番狂わせを小澤さんが仕掛けてきたんだけどさ、それが事前にわかっちゃったのね。

「じゃあ収録しますねぇ」って小澤さんが言う直前に、コーザル体の領域で番狂わせの許可が出てたのを感じたんだよね。「たまには番狂わせしますか〜?」「いいですね〜」「ならそれで〜」みたいな。それを感じて、(あ、番狂わせ来るわ)と思って、そしたら案の定、小澤さんが「ご飯食べた?」って言ってきたから、「うん、分かってた」って答えたんだけど。

賢さんのnoteでも、自分のこのコーザル体にまつわることが書かれていたなぁって感じるんだよね。想像と創造の話とかさ。

【引用始め】

 今日は出掛けようと思っていたが、やめた。出掛けなかった。本をいくらか読みたい気持ちになった気がして、東京駅近くの丸善に行く可能性を感じていた。その可能性を、“想像(イマジン)”しているのか、“創造(クリエイト)”しているのかは、わからなかった。「こういうのは、どっちなんだろう。」そんなことを考えているような、考えているという程ではないような、そんな状態があった。

【引用終わり】

これもそうだね。

【引用始め】

雄馬さんに、書けと言っているわけでは、ありませんよ? ……というこの一文も、果たして、どちらの意味なのでしょうね。

【引用終わり】

まず何が起きるのかを個人の区別が柔らかい領域で決めてから、それにまつわる信念が個々人に生まれていくっていう流れを見せてくれてるんだよねぇ。まじよくできてるな。

スタートもゴールも「0」だし、「無」だし、「空」なんだけど、その間の仕組みをもうちょっと見ていこうか〜ってところに向かってる気がする。

そろそろタイトルが決まりそうな予感、、、???

おーちゃんに興味のある方は以下のリンクからどうぞ💕


むりすんなよ