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2024/05/08

ちょっと嗜好を変えてみる。

今日、ある人が「自分の時間が欲しい」と話していた。言いたいことはぼくにも分かる。余暇が欲しいということだろう。仕事や家事や育児の時間ではない時間が欲しい。その気持ちは分かる。今のお前、そのどれもやってないやん、と言われるかもしれないが、分かるったら分かる。分かるので、「お忙しいですね」と声をかけることもできる。それが思いやりなのだろう。そうしてもいい。そして、そうしなくても、もちろんいい。別に思いやりは義務ではないからな。

だから、「お忙しいですね」とは別のレイヤーで感じてることを伝えてみることにした。「全ての時間があなたの時間だと思います」。

上司からの電話が来ようが、シンクが食器で山積みだろうが、赤子が泣き叫ぼうが、ぼくがどうするかは、ぼくが決めている。無視してもいいし、誰かに頼んでもいいし、自分でやってもいい。良心とか、常識とか、周りの目とか、色々あるにはあるが、、それでも最終的にどうするかを決めるのは、ぼくしかいない。

ぼくの時間も、あなたの時間も、誰の時間も24時間であり、ぼくの時間はぼくがどう使うかを決めている。それを忘れた時だけ、「自分の時間が欲しい」と言えるのだろう。単なる事実で、役に立たない考えかもしれない。そんなのは承知の上で、ぼくは感じていることを伝えた。「全てがあなたの時間だと思います」。これだけだと、何だかアレなので、「何かできることがあれば言ってください。可能な限り、お手伝いします。」とも添えた。まぁ、面倒だと思えば、断るのだけど。

ちょっとした小話をしよう。タイには日本のマイナンバーカードのような扱いの、国民カード制度がある。一人一枚。行政サービスを受けるのに必須で、身分証明に用いられる。この国民カード、国籍に関わる法令などにより、少数民族が受け取れないケースも多いそうだ。

そんな中、タイで最も少数のムラブリは、意外にも所持率100%(推定)なのだ。なぜか? それは彼らが「無害」だからだ。人口が少なく、主張もとりたててなく、ひっそりと森で暮らす人々。このように「無害」であるムラブリは、社会からすれば「無益」とも捉えられる。ムラブリは「無害」で「無益」だからこそ、国籍をスムーズに得ることができた。

中国の老子にも似たような話がある。大きな城か何かを建てるとかで、ある森から木がほとんど残らず切られていた。唯一切られなかった木は、何千もの枝を茂らせ、何万という人が木陰で休むことのできる大木だった。老子はなぜこの大木だけが切られなかったのか、その理由を弟子に聞きに行かせた。

木こりが言うには「この木の枝は節だらけで柱に使えないし、枝は曲がって家具にも使えない。燃やしても煙がひどくて使えない。こんな役立たずの木は切っても仕方がない」からだという。

弟子はから木こりの返答を聞いて、老子は笑って言った。「その大木のようになりなさい。役に立たないでいること。そうすれば、誰もあなたを傷つけようとはしないだろう。役に立たなければ、あなたは誰にも邪魔されず、伸び伸びと成長できる。そうして大きくなったあなたの影で、たくさんの人がくつろぐだろう」。

老子の言いたいことは分かる。けれど、人が「無益」でいることは、言うほど簡単ではない。社会にいると、役に立ちたくなるのは、人として当然だろう。誰もお荷物になんかなりたくない。でも、老子のこの話は、「お荷物である自分を許せ」と言っているように聞こえるし、実際、そう言っているのだろう。それはそのまますんなりとは受け入れ難いぼくがいる。何かいい味付けはないだろうか。

例えば、役に立つを、まさに役として舞台に立つ、と字義通りに受け取ってみてはどうだろうか。ぼくの人生のぼくの時間を、ある別の舞台の、何かの役として時間を使うこと。それが役に立つことだ。そう考えてみる。字面としても、的外れな感じはなさそうではないか。

ぼくがぼくであるとき、つまりぼくの時間を生きるとき、ぼくは役に立たっていない。つまりぼくは「無益」だ。一方で、ぼくがぼくではなく、何か別の役として時間を使うとき、ぼくは「有益」だ。これはほとんど同語反復に過ぎないのだが、「役に立つ」の表す意味を新鮮に感じることができると、ぼくは思う。

つまり、老子が「無益であれ」というのは、「舞台に立つな、自分であれ」と言い換えられるかもしれないのだ。この解釈でなら、筋道が立ちそうだ。

「有益」か「無益」かで考えると、どうしても二元論になる。ぼくでいるのを諦めて、役に立つ、「有益」でいることを選ぶか、ぼくでいることに決め、役に立たない、「無益」でいることを選ぶか。この2択だと、辛い。どちらを選んでも、救いがない感じがある。

けれど、「無益」を、「役に立たない」、つまり「ぼくでいる」、「ぼくの時間を生きる」と読み替えれば、この二元論は回避できる。なぜか? 役に立とうと、立つまいと、常にぼくはあるからだ。

役は、立ったり、立たなかったりできる。つまり「有益」か「無益」かを選ぶことができる。それも結局は見方次第なのだが、とにかく、どちらかだ。でも、ぼくは違う。ぼくは常にただある。役に立とうが、立つまいが、逃れようもなく、ずっとある。ぼくがあるからこそ、ぼくは役に立ったり、役に立たなかったりできる。役は自立できない。ぼくがいないと、役は立ても座りもできないのだ。

しかし、役はなくても、ぼくはある。役があっても、ぼくはある。老子が言おうとしていたのは、こちらかもしれない。「役に立たなくても、あなたはいるだろう?」。それを忘れずにいればいい。誰かに「役立たず」と罵られたら、役は傷つくかもしれない。でも、ぼくは傷つかない。舞台が成功しようが、失敗しようが、ぼくはあるからだ。あることに、成功も失敗もない。その無敵なぼくを忘れずにいること。

傷つきやすく、常に二者択一の中にある役に、ぼくを同化させてしまわないこと。役に立とうが立たまいが、ぼくはひとつも損なわれない。何をしていても、ぼくはぼくの時間を生きている。「自分の時間が欲しい」と、言いそうなときは、それをいつも思い出そう。そんなぼくで居続けられたなら、いつしか周りの人を和ませるぼくになるかもしれない。

全ての時間が、ぼくの時間だ。それは誰も棄損できない。棄損できると思い違えられるのは、ぼくだけだ。すぐ忘れてしまうけれど、こうやって誰かの発言の中にそれを見出すことで、思い出すことができる。そのお礼として、気づいたことをお裾分け程度に伝えてたり、こうして書いているつもりではいる。余計なことかもしれないけれど、ね。

むりすんなよ