肉態演劇旗揚げ
「何を演じていたんですか?」と訊かれて、困った。
戸松美貴博さんが旗揚げされた肉態演劇に出演させていただいた。
あっという間のような、どこか遠い出来事のような、懐かしいような、かなり面白い体験だった。
公演に参加してくださった方(観客とはとても呼べない)から、先の質問を受けて「あ〜、まあ、はい」としか答えられなかった。
ぼくは何も演じていなかったし、終始演じてもいた。
あるいは、「演じる」ことの前提に留まることによって、行為の質がどのように場や人に作用するかを確かめていた。
「演じる」と言うとき、演じられていない状態が前提にあると思う。
「私がAを演じる」と言うとき、「私は本来はA以外である」という前提が、知らず知らずのうちに含まれてしまう。
それは避けられない。
「あなたは何を演じたんですか?」という問いは、「あなたは演じたその『何か』ではないですよね」という暗黙の了解がある。
このような必然的に含まれてしまう暗黙の了解を、コロラリーという。
あらゆる言語活動は必ず、コロラリーを含む。
例えば、あなたが「右」というとき、あなたは知らず知らずのうちに、「上下」と「前後」を決めている。
試しに「上下」と「前後」を決めずに「右」と言おうとしてみるといい。
あなたは虚空に浮かぶ自分に言葉を失うだろう。
つまり、コロラリーとは、あなたが話す前に決め、そして忘れたことだ。
いくら「自分で決めたんじゃない」と言っても、あなたは「上下」と「前後」を自分で決めていた。あなたはそれなしに、「右」とさえ言うことができない。
肉態演劇は、この普段は意識されないあらゆるコロラリーに、様々な仕掛けで絶えず目を醒ますよう構造化されている。
肉態演劇は、決められたストーリーがあり、落ちがある。
物語の展開は予め決められている。
しかし、その体験の質は、参加者がどれだけ自分の隠し持つコロラリーと向き合えるかに委ねられている。
あらゆるコロラリーが消え失せたそこに、あなただけの「裸」がある。
裸ーーー宇宙的絶対的な孤独ーーーを、肉態演劇は半ば暴力的に突きつける。
実は、この裸はある数学者によって天才と定義された。
あなただけの位置、ベクトルを生む、裸。
そのまま、このまま、ありのままに、
そのまま、このまま、ありのままに、
そのまま、このまま、ありのままに、
裸のままに!
この肉態演劇があなたの天才たる裸に出会える機会になったのなら、それは自分でやったことです。
関わってくださったみなさま、ありがとうございます。
むりすんなよ