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2024/05/17-2

 今日も今日とて、昼間から当てもなくぶらぶらと散歩中、少し日差しが強かったので、駅前のベンチで休んでたら、K正会のおばちゃんに話しかけられてね。なんて話しかけられたっけ、もう忘れちゃったっけど、覚えているのは、K正会の本部が大宮にあることと、「運はまだ若いときにはたくさんあるけど、歳を取ると減っていくから、富士山に向かって念仏を唱えるといいんだよ」って教えてもらった。

 富士山の写真がデーンと乗ったチラシをくれてね。連絡先を教えて欲しそうだったけど、それは断った。あ、そうだ、最後に「この出会いも偶然ではないんですよ」と言われて、「その通りだと思います」と返事したような、してないような、でもその通りだなとは思ったのは確かだ。K正会には入りませんが。

 どうしてこの話をしたかというと、賢さんのリクエストに関係があると踏んだからです。「偶然ではないんです」。リクエストとは、こちらでした。

【引用はじめ】
 最後に私が書いた、《私は徹底徹尾「なんもやってない」のではなく、「なんもやってない」をやっている。》なんですが、これは一体、なんなんでしょうか。私は、何を、どう、やっているんでしょうか。
【引用おわり】

 賢さんは台詞と意図の間に不一致がない、という話をしたんですが、それを起こしている賢さんの感覚としては、何かをしているというより、「なんもやってない」をやっている、そんな感覚があるみたいで、それについて説明してよねカレーを注文されました。ご注文、ありがとうございますにゃ(バーミヤンにいます)。

 台詞と意図の一致/不一致は、学問的には例えば言語行為とか呼ばれて研究されたりしてるんですが、専門的な議論はできる自信がないし、ここではするつもりはないのでパスします。気になるひとは言語行為とか、オースティンとか、発話内行為とかで調べるとよいでしょう。面白いです。オゾネ語でもなんでも、分析や学問的な貢献をするには理論が必要です。でも何かを理解するために理論は不要です。手助けにはなることもあるとは思いますが、同じだけ邪魔にもなりえます。用法用量を守って使いましょう。

 そんで不一致がない、ね。

【引用はじめ】
(中略)一致がどうこうというより、不一致に敏感、という言い方の方がいい気がするーーという修正も、「不一致」が起点になっている。私は一致させようと努力しているのではなく、不一致を見つけた時にだけ修正して、それ以外はなんもやってない、というこの表現に特に違和感を覚えないので、こちらが“当たり”だろう。【引用おわり】

 台詞と意図の不一致、言い換えるなら言ってることとやってることの矛盾に、賢さんは敏感だってことね。不一致があるときにだけ修正をする。それ以外は、「なんもやってない」をやっている。いや〜、とってもいい表現だと思う。

 K正会のおばちゃんの台詞と意図は、矛盾がある。おばちゃんは「富士山に向かって念仏を唱えると運が上がる」と言った。もしおばちゃんがそれを本気で信じているなら、それだけ伝えればおしまいだろう。五十六さんじゃないが、やってみせるのが一番だ。

「富士山に向かって念仏すると運が良くなる!この私のようにね!富士山はここからならあっち!念仏はこれ!やってみせるね!南無阿弥陀仏〜!気が向けば、やってみてくれよな!(ビューン)」

 それで済む。それが最適だ。チラシなんていらない。でも、おばちゃんはそうはしなかった。

「宗教ってお年寄りばっかりのイメージあると思うけど、若い人もたくさんいるから、一緒にやりましょう、若いうちはいいけど、歳をとると運が下がるの、それは心配でしょう?」

そして、ぼくに連絡先を聞いてきた。昼間っから駅までボケーっとしている若者を憂いてくれたのは本当かもしれないし、そこは疑わないけれど、このおばちゃんはぼくの運気を心配してくれる以上の何かを意図して、ぼくに話しかけていた。つまり、勧誘だろう。本人だってそれはわかってるはずだ。でも、わかってないふりをしている。わかってないふりをしないと、こんな勧誘だなんて、やってられないからだ。ぼくは、丁重にお断りした。

 おばちゃんが、メガホンで富士山に向かって「南無阿弥陀仏〜!」ってしながら、超絶幸せそうにしていたら、ぼくも仲間に加わったかもしれない。いや、加わってないわ。ごめん。でも、その在り方に納得するとは思う。美しいと感じると思う。一致している人は、美しいから、すぐわかる。不一致もすぐわかる。醜いから。痛々しさがあるからだ。

 おばちゃんは不一致だった。一致してたら、黙ってても、人を惹きつける。勧誘なんて必要ない。でも、おばちゃんはおどおどしていた。ぼくに向かって話しているのに、話している自分自身を説得しようとしていた。語気が不必要に強くなっていた。リラックスしていなかった。真っ直ぐにぼくを見れていなかった。不一致の色々な兆候が、ありありと感じられた。ぼくに感じられた兆候が、本人に感じられないはずがない。

 この不一致を退ける唯一の方法は、その行為を辞めることだ。止めることだ。みんな気づいて入る。でも、本当の意味では気づいていない。気づくのは、いつも辞めた後だ。必ずその順番だ。なぜなら、「気づいた」と思っても、辞めない人がほとんどだからだ。

「矛盾? 不一致? いやはや、痛いところを突かれました。たしかに、気づいていますよ。その通りです。でも、そうは言ってもね、生きるのに必要なことはあるんですよ、大事なことなんです、昼間から散歩できるあなたには分からないでしょう、でもね、わたしはやりたくてやっているんです、だから、いいんですよ、これで」

 おばちゃんは、そうやって、やめるのを先延ばしにする。昨日もやったし、みんなやってる。それが理由で、勧誘をやめない。不一致が送るサインを見逃し続けている。こんなものだ、みんなもそうだ。そうやって、不一致のサインを喜んで受け入れてさえいる。まるで不一致を求めているかのように!

 でも、おばちゃんは求めてなんかいやしない。本当にやりたいことをやっている人が、どうしてそんなに惨めに見える? 惨めな自分に、健気さや献身という「美」を見出して、不一致を受け入れていく、不一致の上の不一致。ややこしい!

 だから、気づいてるとか、気づいてないとか、言ってる前に、まずやめることが必要だ。でも、やめることは難しい。簡単だったら、みんなもうやってる。じゃあどうするか。賢さんをすればいい。つまり、「なんもやってない」をやってみる。

 人は何もしないことが苦手だ。禁煙や禁酒などが難しいのはそのためだ。タバコを吸わないは、達成感がない。喫煙所を見るたびに、目をつむらなければならない。その人は、どこへ行っても喫煙所を探し続けるだろう。そうすると、いつかずっこける。目をつむったままだから(笑)。だから、代案が必要だ。喫煙所には行ったらいい。ただ、別のことをすること。例えばルービックキューブをする。喫煙所に行くことはいい。こけないためにね。でも、そこで別の何かをすること。その方が、よっぽど続く。そして、あなたはいつしかルービックキューブに飽きだす。そこでようやく、あなたは禁煙に成功する。「なんもやってない」をやることに成功する。

 賢さんはその「なんもやってない」をよく心得ている。一度、痛い目に遭っているのもあるんだろう。不一致で身体を壊した。不一致の引力を知っている。ぼくもそうだ。きゃつは強力だ。そいつに構ってはいけない。ちょっとでもだ。ただただ、不一致を見出すこと。見出したら、止めること。止めるのが難しいなら、「なんもやってない」をやること。それだけが有効なのを、賢さんはよく分かっているし、ぼくも分かっている。

【引用はじめ】
 最後に私が書いた、《私は徹底徹尾「なんもやってない」のではなく、「なんもやってない」をやっている。》なんですが、これは一体、なんなんでしょうか。私は、何を、どう、やっているんでしょうか。
【引用おわり】

 「なんもやってない」をやるのは、不一致をただただ見ていることだ。そこに一致が起こる。一致は起こすものじゃない。不一致を見て、行為を辞めたあとに、静かに起こることだけが、一致たりえる。その「なんもやってない」をやる、という表現には、不一致を止ませ、一致を呼び込むための、受動的な能動性という、微妙なコツが、うまく言語化されている。

 「偶然の出会いはないと思いますよ」。顕正会のおばちゃん、まさしくそうでしたよ。あなたとの出会いが、今日のnoteを生み出しました。ありがとうございます。K正会には入らないけど、富士山に向かって念仏唱えてみるね。おばちゃんの幸せを祈って。

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