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並行書簡-03

体操はもういいか、となった。

賢さんは日記風小説の中で、とまで書いたところで、ちょうど話しかけられて、何を引用しようとしたか忘れた。そしてもう、それはここではない。

万事がそんな風なので、体操というものをやろうにも、「よっこいしょ」がいる。「よっこいしょ」は例えば、座っているときに立ち上がったりするときに発する。座っている自分と立っている自分。これだってぜーんぜん違う自分なのだ。同じ「自分」という語を使って言い表せるのが、不思議なくらい違う。カニとエビくらい違う。カニとエビは近い。月とスッポンより遠い。月とスッポンって天才ではあるけど、意味というより語感で押し切られてるよな、なんて少し戻って推敲しようとしたけど、辞めた。天才的ではあるけど、にしようとして辞めた。そんな男に体操なぞできない。

いつのまにか日記風小説みたいになっている。あの文体って、ここ数回のは特に、読みやすい。なんで読みやすいんだろ。他の人は読みやすいのかな。ぼくはとても好きだ。ありがとうね。賢さん。そして賢さんを成り立たせている全て。その全てには当然自分が入っていて、しかもその自分は座っている自分、つまり「ビフォアよっこいしょ」の自分と、「アフターよっこいしょ」の自分だ。その両方の自分が入っているのが、賢さんを成り立たせている全て、に含まれる自分だ。どうやっても入っちゃう。ヤーねー。だから、立っても座っても寝転がってもいいのだ。

いま「一日ありがとう」とパートナーから言われた。ありがたいな、と思ったらありがとうがもらえた。単純にできている。ね。

喉が乾けば水をコップに入れ飲むようにスムーズな人生は、蛇口をひねれば水の出る仕組みと、どうやってプリントするかも知らないうさぎの模様の入ったコップと、それらをつなげる肉体がいる。全て身体だ。蛇口もうさぎの模様もコップも肉体も。それらがどうやってそこにいるのかは何も分からないけど、それらがあることで水が飲みたくなり、水が飲めた。これが知りたくて水を飲み、水が飲みたくなったとしたら、どうだろう。

ひと呼吸ひと呼吸が、一足一足が、体操であり、歌であり、踊りであるように。

むりすんなよ