もう二度と出会えないとわかっていても、それでも探し続ける病【よるのひとりごと#3】
決してストーカーの話ではございません…。
どうも、湯倉です。
突然ですが、私は長いこと"とある症状"に悩まされています。
それは、
「もう二度と出会えないとわかっていても、それでも探してしまいたくなる病」の発作が1年に1度程度発症してしまうことです。
安心してください。
医学的な病気でも、ストーカーじみた危険な思考でもございません。
創作物に対する話です。
これを見て「なんだ、創作物に対しての話か」となる方が大半でしょうが、
「ああわかる!わかるよ!」と感じてくれる方も一定数いるのではないでしょうか。
私がこの症状に悩んだきっかけをお話ししましょう。
それは、私が中学生のとき。
当時はスマホなど持っておらず、進研ゼミでもらったけれど制限がかけまくられたタブレットのみ。
その時にはすでに親の影響から漫画やアニメ大好きなオタクであった私は、
小説を読んだり書くことが好きだったのもあり、
タブレットを使って、いわゆる二次創作作品を読み漁っていました。
また自分の書いた小説を投稿したいがために、四桁のパスワードをローラー作戦で当てに行ったり、親に秘密のパスワードを勘づかれないように自然に聞き出し、制限を解除するなんていう悪い子供でした。
そのおかげで、今では割と当たり前になっていますが、
中学生ながらグーグルアカウントを取得し、メアドを使っていろんなものに登録したり、pixivアカウントを取得してに作品投稿したり、twitterアカウントを2個作成し同志との交流を楽しんだりしていました。
もちろん親には無断で。
ごめん、お母さん…。
さて、そんなこんなで創作活動を楽しんでいた私は、
作品を投稿するだけでなく、好きな作品やキャラクターのタグ検索でヒットした作品を、古い順で全部読み漁っていくような野郎でした。
今も発作を起こすほど大好きな作品に出合ったのも、このときでした。
「これ好きだな」「私もこんな風に書きたいな」「神作だ!」と思う作品にはたくさん出会ってきましたが、
その作品は、私の記憶に強く残り続けるほど、強烈なインパクトを与えてくれました。
当時その界隈で流行っていた設定や、書き方、流れなんかを取り入れた作品で、特段珍しい何かがあったかと言えばそうではない。
しかし、キャラクターの動かし方や、裏の裏まで考えられた設定、どうなるんだろうと先が読みたくなる展開……
当時の私には、一番といっていいほどの神作でした。
中学生の私は、好きな作品が消されてしまうことを恐れて、
その作品の文章をWordにすべてコピーして印刷する、というずる賢いことを思いついていたので、(その行為が許されるのかはかなりグレーゾーンですが…)
親が不在のときは、親のアカウントで勝手にパソコンを立ち上げ、Wordを使い印刷していました。
もちろん、履歴を消すところまでカンペキに。
結局一度もバレたことはありませんでした。
印刷した作品はかなりのページ数に及び、ペラペラのクリアファイルじゃ頼りないくらいの重さになっていました。
仕方なく、どこかでもらったバック型のクリアファイルに入れて大事に持ち歩いていました。いつでも読めるように。
こんなやつに入れてました。これでも破れる寸前でした。
さて、当時中学校の同級生には、私と同じようにその作品が好きだった友人がたくさんいました。
その歳で二次創作という概念を理解していたは少ないのではないかと思いますが、例にもれず私もその通りで、配慮するということを知らないまま友人にその作品を貸して回し読みするしていました。
それが運の尽きだったのです。
もうお察しでしょう。
誰に貸したかわからなくなってしまったのです。
あんなに大好きな作品だったのに、なぜ?と今振り返れば疑問なのですが、
当時は同じように大好きで印刷して持ち歩いていた作品がいくつかあったのです。
いつ誰に何を貸しているのか、という管理ができているはずもなく。
手元にないと気が付いたのは、中学も卒業する間近の話。
もう手遅れだったのです。
「じゃあまた印刷すればいいじゃない」と思うでしょう。
――そうです、その作品はもうどこにも存在しなかったのです。
ネットの海から忽然と姿を消してしまいました。
ネットではよくあること。
そのよくあることを防止するための対策が不覚にも失敗してしまったために、招いてしまったこと。
人間というのは不思議で、入るなと言われれば入りたくなり、
見るなと言われるほど見たくなる。
「駄目だ」とわかることほど、やりたくなってしまうのです。
冒頭でご紹介した、「もう二度と出会えないとわかっていても、それでも探し続ける病」とは、
人間のこの天邪鬼な精神により、「もう二度と読むことのできない作品だとわかっているからこそ、読みたくなってしまう」というものでした。
あの作品と出会ってから、10年近く。
人間の記憶というのは美化されるものですから、
実はその作品は、自分が思っているものとは違うものだったかもしれません。
それでも、これだけは言いたい。
たくさんの作品が溢れているこの世の中で、あなたの作品に出会えてよかった。
本当はもう一度読みたい。読んであなたの素晴らしい作品を噛みしめたい。
でもあなたの意思で消したのなら、私はそれを尊重します。
あなたは私の中に素晴らしい作品を残してくれた。その事実だけで、もう十分すぎるほど幸せなのです。
だから本当にありがとう。
創作をしたことのある人ならきっとわかるはず。
自分の中からアイデアをひねり出し、綴り、完成までたどり着くのに、たくさんの時間がかかること。たくさん頭を悩ませること。
本当にこれで良いのかと、書くのをやめようかと何度も立ち止まること。
でも、それでも完成させることの喜びを知っているから、書き続けたくなる気持ちも。
そんな苦しみもある中で生み出された、我が子と言っても過言ではない作品に出会えたこと。
ネットの海の中にごまんとある作品の中から”たったひとつの作品”に出会えたこと。
紛うことなき奇跡なのです。
その奇跡に私は感謝したい。
年に一度くらいは、その作品が復活してないかな……なんて塵のような期待で、ネットやTwitterでタイトルで検索をかけます。
当然のようにヒットしません。Twitterでも私と同じように嘆いているツイートは、自分の過去のツイート以外はヒットしません。
もう作者の方の名前も覚えていません。
もう二度と出会えないとわかっていても、もう一度読めたらな、なんて思ってしまうのです。
あんな素晴らしい作品を、私の記憶の中だけで、いずれ忘れてしまうなんて嫌だ。
だから私は考えたのです。
その作品のリスペクトした作品を、書けばいいのではないかと。
そのままでは当然盗作です。
だから、うろ覚えの設定と、素晴らしいな思った部分だけを抽出して。
私の中で、あなたの作品を忘れないための記録を。
この世にあなたの作品があったことを忘れないための備忘録を。
それがまた誰かの心に届きますようにと期待を込めて。
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