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キタニタツヤ×梨×大森時生「コミュニケーションとしての『不気味』論」

8月21日、『行方不明展』閉場後の会場にて、制作陣の梨氏、大森時生氏とシンガーソングライター・キタニタツヤ氏によるトークライブが開催されました。

ステージでは、キタニ氏が『行方不明展』に感じたさまざまな“感情”の話をきっかけに、梨氏、大森氏の「フェイクドキュメンタリー演出論」を経て、「不気味」という感情の発露にまつわる、ある問題意識へと発展。それぞれの立場から見た「コミュニケーションとしての『不気味』論」が交わされました。当日のトークを一部抜粋・編集してお届けします。
(取材・構成・写真:天谷窓大)

「これ、歌じゃん」キタニタツヤが『行方不明展』に覚えた“感情”

キタニ:『行方不明展』は、いろんな種類の感情を起こさせる展示だなと思いましたね。

梨さんと大森さん、闇さんのプロデュースということで「ゾワゾワっとする怖いもの」を期待して行ったんですよ。顔が不自然にはめこまれた「ゆうくん」の張り紙とか、携帯電話の山とか、電話ボックスの展示に「これこれ、なんか嫌だな〜」と感じる“悦び”を得ていたんですけど、それだけではなくて。

その後、失ってしまったものに対して「思い出せない」と綴る手紙だったり、行方不明になった人や、誰かに行方不明になられてしまった人の書き置きとかも見て、何か切なさとか優しさみたいな感情も覚えたんですよね。

そして、行方不明になった兄に向けて「そこにあなたの求めているものがあるとは限らない」と諭す妹の手紙。ここへ来てすごい虚脱感を覚えて、最終的に「虚しさ」へと感情が着地したんです。

こんなにもいろんな感情を揺さぶられるものなのか、と。来る前にはまったく想像していませんでしたね。当初は「いろんなところでゾワゾワして鳥肌立てて帰るぞ」と楽しみにしていたんですが、それをいい意味で裏切られたのが良かったですね。

いわゆる「異世界転生もの」って、救いを求めるために外の世界へ飛ばされて、そっちでうまくいって嬉しいというジャンルじゃないですか。『行方不明展』ではこれに対して「そうとは限らないよね」というアンチテーゼを投げかけていて。

フィクションの奥にある現実というか、“生っぽさ”っていうのがこんなに早い段階で、こんな形で提示されるんだ、っていうところに僕は結構がく然として、しょげました。

梨:しょげましたか(笑)

キタニ:これはフィクションだけど人生の現実ではあるな、っていう。

大森:異世界転生をして違う自分になるのって、ある種の夢というか救いみたいなところがあるじゃないですか。「でも、そう上手くいきますかね」っていう提示って、めちゃめちゃ意地悪なんだけど、逆に「『ここでがんばってみようかな』感」も結構もらえるなと思ったんですよね。

キタニ:そう! そうですね。

大森:意地悪でありながら、意外とエールでもあるっていうのが面白いなと。

キタニ:そう! そうした意義深さも感じて。こういうと失礼かもしれないですけど、自分の人生に適用できるメッセージみたいなものを『行方不明展』ではまったく想定していなかったから、それも読み取れるものだったことにびっくりして。「歌じゃん!」って思っちゃって。

梨:光栄です!

大森:めちゃめちゃ嬉しい。一番嬉しい感想かもしれないです。

梨:キタニさんからそのお言葉を聞けるとは。いや〜(会場笑い)

キタニ:でも、こういう内容をみんな知らないで来ているというか。

大森:かつて担当した『Aマッソのがんばれ奥様ッソ!』は奥様番組と見せかけてホラー、というように、これまで「だまし討ち」の手法で不気味さを出してきたんですが、これからはホラーや不気味というジャンルでズラすっていうことの面白さがあるなと思っていて。

今回の『行方不明展』って、いわゆるJホラー的な、湿度の高い、じっとりしたホラーだと思いきや、どっちかというとリミナルスペース(簡素で不気味な超現実空間)や「The Backrooms」のようなSF寄りの不気味さという。そうした「ズラし」の部分が個人的には面白いんじゃないかなと。

文脈とか、いろんなものを背負いすぎていて、一回全部降ろしたいと思うこと、ないですか?

キタニ:そうですね、期待されている「らしさ」とか。

大森:「大森はいまこういう文脈にいるから、次はこういうことやるだろうな」とか、「こういうこと言うだろうな」とか。全部決められているように感じちゃうことがあるんですよね。

キタニ:僕もめっちゃあります。そういう期待や予想に対する「ズラし」をずっとやっていきたいっていう思いは常にありますね。

『ずうっといっしょ!』とか、かわいいタイトルで実は怖かった、みたいなのもそうだし。そこで「キタニタツヤは暗いイメージだから」と言われたら、今度は明るい曲を書きたいっていうことも常々考えていますし。

裏切りたいというか、「わかった口きくんじゃねえ」という反発心が大きいかもしれないです。“想定”を出たいんですよね。

大森:『行方不明展』に来る人も、多くは会社内で役割とか、こういうことを求められている、というような(自分に対する)仮定があると思っていて。いつまでにこういうことをして……といった諸々のことが、あらかじめ決められているような感覚があると思うんです。

それを全部捨てたいっていう欲が、みんなきっと心のどこかにあると思っていて。それを展示という形で可視化できると面白いかなと思っていました。

キタニ:ポップな形で見せてくれるというか。「時々ふっと消えたくなる」という感覚そののものは、実はとても一般的なんですよね。「そう思っている人って、この世の中にいっぱいいるんだな。わかる」という肯定をきちんと与えられる展示だと思いました。

本当をウソで塗り固めるより、ウソに本当を積み重ねるほうが本当っぽく見える

キタニ:『行方不明展』の展示物って、どれも本当にありそうなものばかりじゃないですか。「こういう人がいたんだ」ということに対して「私もわかるな」と共感して感動する、っていう楽しみ方も全然ありだと思うんですけど、フィクションであると明確に宣言しているのはどうしてなんですか?

梨:「フィクションだと思っていても言わない」というのが、ホラーの人の不文律みたいなところがあるじゃないですか。「これは○○県の○○さんが実際に体験した話である……」みたいな。

以前、大森さんの話で「たしかにそうだな」と思ったのが、「バズりだけを考えたら『フィクションです』って言わないほうがいい」と。

キタニ:本当にあった感を出したほうが……

梨:「これはフィクションです」と注釈をつけないほうがバズるんですけど、でもそうじゃないよね、っていうところがちょっとあって。

キタニ:それは倫理観からですか?

梨:倫理観もありますし、個人的には本当っぽく見せたいというよりも、手法として現実に反目した世界観を作ることに惹かれているところがあるんですよ。

たとえばSCP(自然法則に反した異常な物品や現象のありようや、その収容手順を記した「報告書」という設定のストーリーテリング)もフィクションとして成り立っている世界観ですけれど、あくまでも演出のツールとして「実際にありましたよ」という体裁を取っているわけで。

現実だと思ってほしいわけではなくて、フィクションの世界観だけど本当っぽいことをやる、という文脈のほうが、私のやり方には合っているなと。

大森:ウソに本当っぽいものを積み重ねる、というのがいまのフェイクドキュメンタリーの手法だと思うんです。「これはウソですよ」って言ったものに、とにかく本当っぽいディティールをどんどん積み重ねていく。

対して、これまでのものは「本当ですよ」と言ったものをウソで塗り固めていく手法だった。この2つを比較すると、前者のほうが本当っぽく見えると思っていて。そうした手法としての面白さに惹かれているところがありますね。

キタニ:「ウソですよ」という前フリがきいてきて、ウソなはずなのに「あれ?」ってなってくる、っていう。

梨:こうした部分は「フェイクドキュメンタリーQ」による発明かもしれないですね。最初に「フェイクです」って宣言する文化は、ここから来ているんじゃないかなと思っていて。

「これは本当です」って言っちゃうと、観客の方々の2割くらいは「じゃぁ粗探ししてやるか」みたいな感じになると思うんですよ。これが良い悪いということではなくて、一般論として。

でも「これはフェイクです」って言っちゃうと、フェイクだってわかっているから、その2割もある程度世界観に入ってきてくれる。

キタニ:創作の部分に集中して鑑賞できるというか。

梨:創作としてのディティールや、「本当っぽく見せる」演出を楽しむほうに100%の視線を向けられるというところが、フィクションの強みかなと思っています。

キタニ:たしかに「フィクションです」って言ったほうが、鑑賞の強度を高められますよね。

大森:フェイクドキュメンタリーをフェイクドキュメンタリーとせずに「真実」としてやることの暴力性ってすごすぎると僕は思っていて。実際そういうコンテンツもありますし。それに対するアンチテーゼというわけではないですけど、真摯に作ると、やっぱり最初にフィクションと言ったうえでのフェイクドキュメンタリーかなと思っています。

キタニ:クリエイターとしての真摯さの現れでもあるんですね。

「不気味さ」になぜ惹かれるのか

大森:キタニさんのMV見てると、不気味な表現というものを多く取り入れているなと思っていて。不気味という感情に惹かれる感覚みたいなものがあるんでしょうか?

キタニ:オチをつけたいな、という気持ちがあって。どんでん返しというか、最後に何かがクルッとひっくり返って「うわっ」ってなる展開を作ろうと思ったときに、不気味な表現がまず念頭に浮かぶんですよね。

どんでん返しをもって、最後うれしい気持ちになるか、形容しがたい気持ちになるか。僕がこれまで触れてきたコンテンツは後者が多かった、というのも背景にはあるかもしれないですね。

大森:どんなコンテンツが原体験としてあったんですか?

キタニ:小学生のころに読んだ推理小説とか。「コイツが犯人だったのか! めっちゃ近くにいたやん!」みたいな。そういうものに対する不気味さとかは記憶に残っていますね。

逆にホラーとかはすごく苦手だったんですよ。現実を書き換えられる感じというか。シャンプーしてたら後ろに気配を感じる、とか(笑)

僕の実家、塾の友達に「お化け屋敷」って言われるくらいのボロアパートだったんですけど、階段で3Fにある自宅に帰るとき、家が近づいてくるのにだんだん怖くなってきて。

3Fに上がったらあとはまっすぐ廊下を通るだけなんですけど、後ろを振り返ると屋上へ通じる階段があるんですよ。普段は誰も入らないから真っ暗で。行ってもただ単に屋上があるだけなんですけど、自分にとっては到達したことのない場所だから、本当にそこに屋上があるかもわからないという恐怖があって。

家までは廊下を10mほど歩くだけなんですけど、そこまでの時点ですでに恐怖のボルテージが上がりきってて、人生最速なんじゃないかってくらいの勢いでダッシュしてましたね。家までの最後の10mが一番怖かった。

しかもその部分って、ホラーを見たあとに一番書き換えられやすい現実なんですよ。僕はそれが怖くて、ホラーがずっとダメだったんですけど、いまこうしてホラーの人たちとしゃべっているという(会場笑い)

大森:ホラーのど真ん中には、やっぱりそういう「不気味」みたいな感覚があって、だからキタニさんとも波長が合うのかもしれないですね。

『素敵なしゅうまつを!』のMVが「検索してはいけない言葉」としてサジェストされていたりしますし。キタニさんって、「生きてて最悪」だとか、「なんかもう終わってる」といった感覚を歌にしたりすることが多いですよね。

キタニ:そうですね。しょっちゅう地獄だって言ってますね。

大森:キタニさんの思う「地獄」って何ですか?

キタニ:やっぱ、インターネットじゃないですか。「インターネット地獄」が一番僕にとってはずっとフレッシュであり続けているというか。むしろそこを見に行って、自分の中の悪意を稼いでいるから、クリエイターをやっていられる(笑)

30歳近くなると、10代ほどの黒い感情がどんどん沸かなくなっていくんですよ。でもインターネットを見れば、いつでも10代のころの悪意に戻れる。「あ〜、やっぱりみんな最悪!」っていう、この負のエネルギーを持ち帰って音楽に活かそうと思えるんですよね。

『デマゴーグ』ってアルバムを作ったときはコロナ禍まっさかりで、みんな「正義パンチをいっぱい打て!」みたいな時期だったなと。たぶんそのときから地獄地獄言い始めたと思うんですけど。もっとも、「嫌いなヤツがいるぞ…… あっ、アイツなんかやった! 今だーーー! 正義パンチ!」っていうムーブはいまも変わらないですけどね。

大森:パンチをする言い訳を探しているような感じですよね。

キタニ:普通、人に面と向かってそんなこと言えんやん、みたいな悪口とかも、インターネットのおかげで本人に直接届くじゃないですか。なかなか貴重な体験をさせてもらってるな、っていう意味ではインターネットって最高だなと。

大森:(苦笑)

「熱のときに見る夢」というフレーズの功罪

キタニ:大森さん、インターネットは好きですか?

大森:うーん。自分から出ていない言葉を見るのは嫌かもしれないですね。たとえば「熱のときに見る夢」みたいな、いわゆる便利フレーズ。

インターネットをやりすぎていると、インターネット上の人のリアクションが内面化されすぎちゃうんですよね。リアルな場で倫理的に問題のある発言やふるまいをしている人を見ると、ダメだなと思うより先に「SNSで炎上しそうだな」と思ってしまうことがあって。

それってめっちゃキモいなって自分でも思うんですよ。インターネット上にある感想をたくさん見すぎて、無数の他人のリアクションに自分の感情が上塗りされている。

キタニ:自分の感情を部分的に他人へ委託しちゃっているんですよね。

「映画を見終わったあと、自分の感想を言語化するのが面倒くさいから、Xでエゴサーチをして他の人の感想を確認して、自分が何かを言った気になってしまう」という書き込みを前にどこかで見て、「うわー、これはわかってしまうぞ」と。

大森:ある程度インターネットやSNSを見ていると、どうしてもそうなりがちですけど、自分の感情や思考をあまりに他人へアウトソーシングしすぎているなと。いったん携帯とか置いて山にでも行って、自分の感情と対話することが必要なんだろうなって。

キタニ:その表現さえ慣用句になりつつあるくらいですけど、実際にそれくらいのことをしなければインターネットから離れられないから。最悪……(会場笑い)

大森:自分自身、頭使ってないなと思っちゃうんですよね。

キタニ:僕のYouTubeのコメント欄にも「熱のときに見る夢」ってめちゃめちゃ書かれるんですよ。

みんなが熱のときに見る夢は一人ひとり違っているはずで、厳密に同じイメージを共有しているわけではないんだけど、なんか20%ずつくらい噛み合っているから、便利フレーズとして使われるわけで。

見たときに「自分の気持ちが言語化されたみたいだ」って思っちゃうんですけど、本当は言語化されきっていないはずなんですよ。残りの80%の部分があるはずなんですけど、みんなそれを“写経”することに慣れてるから、それが集合知、みたいな。一つの感性に少しずつ収斂されていっている感じがして、そこに本能的な嫌さを感じているのかもしれないですね。

大森:「本当に熱のとき見る夢をみんな話しませんか?」ってなりますよね(会場笑い)

キタニ:山でね(笑)

大森:山に入って(笑)

梨:(爆笑)

キタニ:そんな奇妙な集会を見てしまった人によるホラーを(笑)

梨:(笑)

キタニ:実際、感性のすり合わせは人と人が合わないとどうしようもないですけど、インターネットは簡単に距離感がバグっちゃうから。人と人をつなげすぎちゃってる。

大森:SNSだと「ウケる、ウケない」が可視化されるじゃないですか。なんとなくみんなが思ってそうな、みんなに当たる面積が広いほうが必然的にインプレッションを稼ぎやすい。「熱のときに見る夢」として、「いつもシャトルランしてる夢を見るんです」みたいな共感できない言葉で言ってもバズんないじゃないですか(笑)

キタニ:たった一人共感するやつがいるかもしれないけど、そいつの「いいね」しかもらえない(笑)

大森:みんなにウケる言葉を選んでいるうちに、自分の中のオリジナルな感情が消えているな、という感覚もあるんですよ。

キタニ:そうだなぁ。怖……

梨:……というエンタメの怖さを再確認したところで、もう終了時間という。

キタニ:めっちゃしゃべりましたね。(観客に向かって)このトークライブが終わったらみんなインターネットに帰って、それぞれの感想を書いてくださいね。自分の言葉でいいんですよ。まずね。それを書いた後にエゴサして、答え合わせしましょう。「あ、俺はみんなとズレてたんだ……」って(会場笑い)

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