見出し画像

北前船を追いかけて

  災害避難のニーズを含めて住まいの安来市では行政無線が市内に張り巡らされた。雪の多かった年明けから業者さんが市内あちこちで工事をし、各家々にも装置を設置した。7月から試験放送が流され、10日間くらい前からだろうか、安来港に北前船が就航すると宣伝された。帆をかけて中海を航行する雄姿をご覧になれます、という。寄港は7月31日。この暑いのに行くのか?という主人に運転して貰い、野次馬の私は早速飛び出す。
 安来港にはかなり人が集まっていて、「甦れ海の道 北前船」という横断幕のかけられた木製の船が横付けされていた。みちのく丸が正式名称。自船に動力はなく、タグボートに曳航された航行。歓迎式典ではお決まりの市長の挨拶や安来節の踊りと歌の披露や船長への花束贈呈等あったが、かんかん照りで日陰が見あたらない港は暑い。江戸時代は北海道から日本海を下関経由で大坂(現在は大阪)まで、沿岸を航行し昆布や干魚、塩魚を運んだ船。今回の航路は復元された青森から北海道の小樽に行き、南下して、安来港までやってきたとのこと。港の式典では帆がかけていない。みちのく丸は、全長32メートル幅8.5メートル、28メートルの杉のマストがその力強さを示すこの船は青森で2006年に2億かけて復元された。マストは探し回って岩手でご神木用に育てた木を使えたらしい。衛星利用測定システム(GPS)も搭載し船上からインターネットへの接続も可能だそうだ。
 江戸時代なら、安来港で、精錬された刃物を載せていくが今回は東北への義援金を載せていく。復興成った後は、山陰の銘菓や安来刃物を載せて東北に戻って欲しいものだ。式典の後、タグボートで沖に移動し帆をかけて中海を航行するというので、岸壁で待つが一向に動かない。じゃ、近くのスーパーで昼食の買い物をしましょ、と現場を離れて20分ほどで戻ると港に船の影も形もない。「あれれ、どこにいっちゃったの?」沖に目をやると、タグボートとみちのく丸が見える。あらま、あんなとこまで行ったのだわ、と納得するが、まだ帆は上がっていない。
 2時間以上待ったら沖で、小さく小さく帆が上がっているらしいことがわかった。通常の乗組員は5人。今回は帆を張るためにボランティアが40人以上乗船したことは後で知った。しかし見ている位置から東に進み、少しも安来港方向には来ない。地元の強みで、海と並行して走る国道を、カーナビを見ながら迂回して走り、安来より南の荒島まで行ったが、北前船が見つからない。そうこうするうち、昼時となり、コンビニに走り、食糧を調達。そしてまた海辺に。式典が始まったのは9時30分。帆をあげたみちのく丸をはるか彼方だが視界にとらえたのは13時30分。写真を撮りたさに水際を歩くこと、25分。やっと撮影できそうな位置に到着。そこには、同じ志らしい写真マニアがチラホラ。お互いにニヤニヤしながら「おっかけ、やりましたわ」と会話した。
 風がはらんだ帆で海を滑るように航行するみちのく丸は美しい。江戸時代の北前船も、こんな風を受けて海を渡ったのだろうか・・・風任せの航海にはたくさんの困難もあったろうが、凪いだ夕暮れ、日没までの赤く染まった日本海や均整のとれた大山の姿に、船上で癒されたのではないか。安来には「安らかに来る」という地名の由来がある。青森への帰港が安全であるようにと祈った。
ゆうこの山陰便りNO.89

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?