コロナ禍のなかの金沢暮らし@7月2日(木)「祖父の看取り介護1日目」

朝の7時50分に母から入電があった。数日前に祖父の容体が悪いから入院したときいていたが、いよいよ延命措置もしないという判断に至ったらしい。そのため退院して特別養護老人ホームへ戻るという。特段何か誘いがあったわけではないが、急遽早退して実家に帰った。

聞けば午前中に退院したらしい。両親は付き添えなかったので、ホームの介護士さんが迎えに行ってくれた。すでに車に乗るのも一苦労なため、また、おそらくこれが最後だからと病院から施設に戻る途中に実家の前を通ってくれたようだ。心遣いがありがたい。父もいるはずだったが、タイミング悪く家にいたのは弟のみだった。だが、弟は祖父の容体を聞いてかたくなに見舞いに行こうとしないことを思えばこれもひとつの縁なのだと思う。

午後2時すぎに母とホームを訪ねた。玄関先には体温計と手指消毒剤、入館表が設置されていた。本来なら新型コロナの影響でいまだ面会はできないという。体温は37度ぴったり。ぎりぎりで入館が許された。

すぐに祖父と面会とはならず、別室にて打ち合わせがあるという。母は「なんのこっちゃ」という顔をしていたが、看取り介護に入るのだから説明くらいあろうと思う。

ケアマネージャーさんとの打ち合わせは30分以上に及んだ。事前情報なしに同席したが、彼は私の方にも目線を送りながら丁寧に説明してくれた。なんてできた人なのだろうと思う。自分が逆の立場なら「小娘が今際のときばかり来よって」と悪態くらいつきたくなる。

看取り介護の介護計画に栄養計画の確認と署名を求められる。看取り介護の介護計画は1カ月程度で見直しするらしい。文中「衣替え(10月)」という記述があったが、暗にそれは難しいだろうという言葉があった。まったくもって同意である。仕事柄、適用期間外なら該当箇所を削除すべきではと思ったが言葉を飲み込む。これは己のエゴと自尊心の披露にすぎない。定例文ごときでがみがみ言うのは非効率、非合理的だ。私、(自称)できる大人なので。

母は少し動揺していたようだが、比較的冷静に(見方によればとても事務的に)打ち合わせを進めていた。祖父の実子たる父も同席するはずだったらしいが、いなくてよかったとも思う。特に看取りの介護計画に対する署名は気が重かったに違いない。

いわゆる「旅立ち」直前の様子も、予兆のあるなしは人によって全く異なるという。介護士さんがそれに気付けたら、部屋もかわり24時間体制で付き添いできるが、それまでは1回10分程度で2~3人程度が限度と言われた。

新型コロナの影響でもっともショックな出来事はこれをおいてほかにないだろうと思う。

その場で母からケアマネージャーさんに荷物が手渡される。シャツ2枚とバスタオル1枚。「浴衣は後日」。最期のおめかしのための準備だった。

そうとは知らず、家で「バスタオルは派手なものがよい」とバズ・ライトイヤーのタオルを突っ込んでしまった。どうしよう。空気が読めていない。いや、しかし、「無限の彼方へ!さあ行くぞ!」というセリフのごとく旅立つのであれば似合っているともいえないこともないのではないか。悩む。

シャツ2枚のうち1枚は不要だからと返却される。残念ながら、宝塚歌劇団星組舞台RAKUGO MUSICAL『ANOTHER WORLD』で地獄めぐりを楽しんだ若旦那のように、あるいは『聖書』で語られるイエス・キリストのように復活することはないのだろう。シャツを受け取る母の様子が妙に瞳に焼きついた。

打ち合わせも終盤。ホームへ来る前にずっと考えていたことがあった。それを口にした。

「食事を受け付けないというが、酒を与えてもよいか」

答えは是であった。それも、大歓迎だった。「おじいちゃん、お酒好きですからね。むしろ良いかもしれません」。本当はすでにお酒を買っていたので安心した。慌てて実家に帰ってきたから現住所に現物を忘れてしまったのだけど。

打ち合わせも終わり、祖父との面会が許された。実に1年ぶりか。伸びた白髪をみて「散髪せにゃなるまい」と思った。しかしふさふさな頭である。私の方が薄い疑惑もある。おかしい。

何も食べないと聞いていた母は、祖父の好きなスイカと羊羹を持ってきていた。「羊羹食べる?」と聞くと祖父はそれまで閉じていた目を見開いた。かわいすぎでは?口をあけてひとくち食む。もごもごしていたが、残念ながらそれ以後食べてくれることはなかった。だが、食べようとする意志に、生きる意欲を思う。

祖父の体調不良は大腸がんから来るものだった。もともと食が細かったのだが、2週間で7キロも体重が減ったのは異常だと病院にかかったところ進行性のがんが見つかった。点滴もしたが、おそらくその栄養もすべてがんに奪われるだろうと。治療をすることの方が体にとっても負担がかかるのではということもあり、今回の看取りに至る。

「からだ痛い?」そう尋ねると、おじいちゃんは首を横に振った。私はそれだけで十分な気もした。痛みがあるのは本人もそうだが、見ている側も辛い。おばあちゃんががんで亡くなるときはモルヒネで痛みが緩和されていたらしい。私のなかの祖母の最後の記憶は苦しそうな様子だ。それを思うと、随分穏やかな最期になるだろう。

前回の見舞いはひとりで来て、眠る祖父を眺めて帰った。1年くらい前になるかもしれない。その頃にはもう私の名前を呼べるような状態ではなかった。今回も果たして私と認識しているのか怪しい。

しかし、暑さにマスクを外した時、おじいちゃんはまた羊羹という言葉を聞いた時のように目を見開いて私をみた。やっぱりわかっていなかったのかと思うとちょっとおかしかった。

以前の見舞いのとき「ハイタッチしよう」と言うと力強く手を出してくれた。それを思い出し、今回も「ハイタッチ!」と言った。ほとんど体は動かなかったはずだが、意外なことにこの言葉には反応した。母は驚き、私は慌てて祖父の手をとった。昔からおじいちゃんは手の力が強い。畑をしていたこともあるだろう。中学生の時には本気で腕相撲をしたが負けてしまった。悔しいかな、今回もおじいちゃんの手の力強さを知らされた。こんなに力強いのに、もう長くないって?嘘だろ。

泣かないと決めていたが、涙は零れた。母はそんな私をみて何も言わなかった。声は震えていなかったし笑えもしたから、おじいちゃんも当然気付かなかっただろう。それならいいのだ。

予定から少し長引いて面会は最終的に15分を過ぎていた。それから実家に帰る道中、ホームセンターに立ち寄った。葬儀の準備のために家を掃除しなければならなかった。おばあちゃんが亡くなる時もそうだ。急に家のふすまを修理に出していたので「これはもしかして」と思っていたら1週間後に葬儀があった。

買い物を終え、実家で少し休んだ後に現住所へ戻る。その道中に末の弟の車とすれ違ったので情報共有も含めて帰ってから少しラインした。末っ子は「おじいちゃんはちょっと体調が悪い」程度でよもや旅立ちが近いことを理解していなかった。聞けば確かに母の言葉はぼかしすぎていた。我が家の表現能力ないしコミュニケーション能力…。

ホームからの帰り道、母と話していたことを思い出す。治療を施さない以上、病院からホームへ戻るように促された時、父と伯母(祖父の実子)はどちらも沈黙したらしい。こく一刻と確実に死神が近付いてきているにもかかわらず父が無防備になることを受け入れがたかったのだろう。母は「誰も答えないから、私が答えて同意してきた」「私ならおばあちゃん(実母)にも同じ対応すると思うけどね」と淡々としていたが「結局のところ、それはそのときにならないとわからないし、実子ではないからこそできる判断だったと思う」と意見すると「確かに」と神妙な顔をしていた。

祖父はホームに入ったのは3年前だ。正直、その頃から最期の日のことはある程度想像できていたし心構えもあった。だが、それだけの準備期間があったとしても、いざ永遠の別れが訪れようというときには混乱も起きよう。父と祖父は決して仲が良いとはいえなかったが、特に父は情に弱い。看取りという決断はひどく神経をすり減らすだろう。今日の打ち合わせでメイン担当が実子ではない母で良かったと思う。だが、当然母自身も大きく精神をすり減らしているのには違いない。実家にいられないことがひどくもどかしかった。

祖父にとってどのような最期が一番良いのかは分からない。もうそうした話をもてる状況ではなくなってしまった。そうであるならば、決して祖父が寂しくないように、この人生が素晴らしいものであったと、そう思って大往生できるように。可能な限り、祖父のそばにいたいものである。

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