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コロナ禍のなかの金沢暮らし@7月25日(土)「祖父の七日参りと、我が家の第二次世界大戦記抄」

東京大空襲に触れます。ご注意ください。

祖父が90歳という御歳で、しかも長く車いす生活をしていたにしては、それはそれは見事な白い骨となり我が家へ帰ってきてからはや一週間。はじめての七日参りの日がやってきた。声をかけたのは祖父の娘夫婦と祖父弟妹たちだったが、彼らに連れられてその子どもたち夫婦も来てくれた。総勢8名。我が家を合わせると13名。完全に密である。しかも、この日は県内感染者が3名。心が穏やかではないのは私だけではなかったようで、お参りのあとにゴインジョ(ご住職のこと。ご院所なのか?いまだわからぬ)と父が、次回七日参りの方法を場合によっては改めようかと話しこんでいた。

さて、我が家が興ったのは曾祖父の時代からである。本家の次男坊だったか三男坊だったか。まあそんな感じの曾祖父が独立し、家を構えた。ちなみに建物時代は三代目、一応父も三代目。めでたい感じがする。

さて、祖父は次男坊である。この人の上の兄が第二次世界大戦中に戦死しているということで、どうやら祖父が家を継いだらしい。祖父にとっての兄、私にとっての大伯父上は、我が家の最初の遺影である。

まあ、この人はイタズラ好きなのか、とにかく半紙をかけようとも外からのお客さんが来たときにはそれを落とす落とす。しかも、見事にその人に当たるように。今日はゴインジョがこれからお経を上げようと直座した瞬間に直撃した。構ってちゃんか。

単純にお客さんが来たときに仏間の扇風機の電源を入れるせいで半紙がとれるのだが、こういう解釈の方が面白いので我が家ではそうしている。

そうしたこともあったものだから、七日法事のあとは必然的に大伯父上の話が始まった。祖父の弟妹たちは、長男とは歳が離れていたようで、その名前すらもう覚えておらず、父が助け舟を出すというありさまだった。大伯父上、ドンマイである。

とにもかくにも、大叔父のひとりは当時小学高学年。家に帰ってきたら、すでに長兄は出征したあとという。大叔父たちが口をそろえて言ったことは「戦争のおわりの方は、誰もがひっそり隠れるように出征した」ということだった。戦争ドキュメンタリで大々的に万歳三唱するようなシーンはあるが、それは「最初の方だけだった」という。「この人(長兄)もひっそり出征した」と。

ちなみに、大伯父の戦死場所や原因も皆の記憶はばらばらだった。大叔父や大叔母は「シベリアに行って、そこで食べるものがなくなって病気で死んだ」と。父は「フィリピン」。私は「ビルマで餓死」だった。私の根拠は祖父の話と町史であるが、真相はいかに。町史は家にあったと思ったが、どうもなかったので近々に購入予定である。不覚。

ちなみに大伯父の遺骨はいまだ見つかっていない。大学在学中に一度祖父に尋ねたことがある。「ビルマに行きたいなら連れていこうか」。祖父は少し笑って「いい」と言っただけだった。それが遠慮から来るものだったら強引にでも連れていくことも考えただろうが、どうも関心が低いものだったので、私は「そう」と答えて話を終えた。

祖父からとうとう第二次世界大戦の話を聞くことはできなかったように思う。恐ろしいとも、悲しいとも。とにかく戦争関連のドラマや映画もだめで、私はそういうのが好きだったからよく居間のテレビでみていたのだが、そうしたものが流れると祖父はすぐに自室にこもった。それに気付いたのは大学進学で実家を出たあとであり、申し訳ないことをしたものだと後悔したものだった。

ただ、東京大空襲のあの日、あの惨劇のなかにいたことだけは聞いていた。しかし、どうも祖父と東京というイメジが結びつかず、どこかで誤解したかと思っていたのだが、七日法事でそれが事実だったことを聞いた。所謂出稼ぎだったらしい。中学を卒業してすぐ東京に働きに出かけ、空襲にあったと。

祖父がその日、その場所で何があったのか、大叔父は聞いていた。この日、すべてを教えてくれることはなかったが、私の祖父が言うことには「落ちてきたアメリカ兵の目玉を刺したらしい。何度も、何度も、みんな竹やりを持って、刺したって言ってた」。「そういう時代だった。みんな、そうだった」と大叔父は早口で話を切り上げた。

果たしてそんなことがあったのか。仮に落ちてきたとしても死んでいたのではないか。生きていたとしても間もなく死ぬ命だったろう。そうした人間に止めをさすその心情は想像を絶する。

祖父の死に対する解釈は独特だったように思う。それは15年前、祖母が病院で危篤となったときの話がある。祖母が意識もうろうとするなか、祖父は病院をあちこち歩き回っていたらしい。悲しそうとも、思いつめているとも、そういう雰囲気ではなく、ただ時間をもてあましていたから、というような動き方だった。そのため看護師をして「奥さんが死ぬことを理解していらっしゃるのか」と言わしめた。私は祖父母が特別仲が良いところをみたことはなかったので、もしかして本当に仲が悪かったのかと思ったりもした。

だからこそ、祖母がなくなって5年以上経ったあと祖父の愛車のダッシュボードに祖母の美しい、よれよれの写真が入っていたのを見たときは、見てはいけないものを見てしまったような、そうした羞恥心があった。あの写真はどこへ行ってしまったのか。棺の中に入れたかったが、とうとう見当たらなかった。

祖母の死に対する祖父の様子を見て、当時、大叔父は仕方がないと思ったらしい。「東京大空襲のようなものをみているとどうしても常人には理解できないものがある」と父母は大叔父から諭された。大叔父は厳格で細かなことにもうるさいので、正直私はあまり好きではないのだが、彼のような受け止める人がいたから祖父は真実心を壊すことがなかったのだろうと思う。

七日法事のあと、祖父の遺品整理が始まった。それは我が家の歴史を共有する過程でもある。古い写真のなかには大祖母もでてきた。我が家の二代建物もあった。奇しくも、祖父の昔の働いていた場所が、私の現住所の近くだったこともわかった。会社の会長や古株あたりに話を聞けば嬉々として教えてくれそうな気がする。

これから、我が家はほんの少しだけ祖父の生きた証を追いかけることになる。それが、より我が家を我が家たらしめるのだろうと予感している。

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