与える喜び

損得を超えるもの

いま、とてもお腹を空かせたあなたの目の前に、おにぎりが一つあるとします。ところが、まわりの人も同じように空腹です。さて、みなさん、どうされるでしょうか。

人に譲る人。分けあおうとする人。あるいは、ひもじさから奪いあいをはじめる人がいるかもしれません。

伝教大師最澄は「己を忘れて他を利する」ことが慈悲を実践する極みといわれていますから、仏教徒としてはおにぎり一つを「まず人さまに」と譲りたいところですが、私たちはなかなか欲から離れられない一面があります。

それでも、私たち人間には本能的に、欲望を満たすこと以上の幸せや喜びを感受する能力が具わっているようです。その感性がはたらくスイッチは何かといえば、人の喜ぶ顔や姿です。

ある方が、地域の施設で開かれた敬老の日の集まりに贈り物をもって出かけたところ、一人のお年寄りから「知らない人から物はいただけない」といわれたそうです。

そこでその方は「ご長寿にあやかりたいので、せめて私の頭を撫でていただけますか」とお願いしました。すると、そのお年寄りは髪の毛がぼさぼさになるほど頭を撫でてくださったそうですが、あらためてそのお礼にと先の贈り物を差しだすと、今度は満面に笑みを浮かべて「ありがとう」といい、受けとってくださったといいます。

人から一方的に何かをしてもらう喜びより、だれかに何かを与える喜びのほうが大きいことを示すとともに、自分の行為が人の幸福や喜びにつながるとき、それは生きがいにも通じることを思わせるエピソードです。

インドの古い書物には「他人に利益を与えたからといって、●りも誇りも報酬の期待もしない。なぜなら、それは自分を楽しませているにすぎないからだ」という言葉があります。

人に利益を与えるとき、そこにはほかのことではとうてい味わえない楽しみや喜びがあり、それはどんな賞賛や損得勘定も超えるということでしょう。

[●は驕の旧字]

喜びは思いやりのなかに

もっとも、こちらがいくらその人のためにと思っていても、相手の気持ちや都合を無視しては独り善がりになることもあり、場合によっては「よけいなお世話」とばかり、迷惑がられることさえあるかもしれません。

困った人を見たら手を差し伸べずにはいられないというくらい思いやりに篤く、本会でいまも慈母と慕われる脇祖さまについて、開祖さまは「いつでも相手の気持を的確にしかも敏速につかんで、物を欲しがるような人には物を惜し気なく施したり……いつでも臨機応変、微に入り細に亘る教化方法を執られた」といわれています。

病苦や貧しさを人一倍味わわれた脇祖さまだからこそ、苦しむ人の気持ちがよくわかり、その一体感が思いやりとなってタイミングや相手の心を逃さずにつかむことができたのでしょう。易しいことではありませんが、私たちも思いやりを発揮していきたいものです。

とはいえ、仮にそこまでのことはできなくても、また相手が思いを受けとってくださらなくても、「人に与えることを喜びとする心が自分にもあった」と発見できるのは大きな喜びです。まして人に譲ることができたら「欲を捨てられた」と、気持ちがすっきりするのではないでしょうか。

たとえ形だけの支援や慈悲の真似ごとでも、それを繰り返していくところには感動と喜びと、心の成長があります。

身で、心で、財物で、人に喜びを与えて得られる喜びや爽快感は、「またさらに思いやりの実践を」との気持ちを起こさしめることでしょう。そうして、いつでも思いやりを実践するなかに、生きる喜びを味わうことができるのです。

『佼成』2013年9月


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