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【引っ越しました】 偉大なるジャズピアニストの生い立ちと埼玉県春日部市について(Part.1)

みなさん( ^ω^ ) こんにちは★ジャズピアニストのゆうこりんです。
いつもノートをお読になって下さりありがとうございます★

実は3日前に武蔵野市吉祥寺から埼玉県春日部市に引っ越しをしました。
欧米生活が長かったので(?) インターネットや電話、テレビの回線の工事を引っ越しの一ヶ月前に手続きをしないといけないことを一昨日知りました(・・;) 電話一本で水道屋さんみたいに簡単に来てくれると思ったのですが・・・(アタシ・・・バカ?(; ・`д・´))

現在Wi-fiがない、電話が繋がらない、テレビがない、彼女がいない(←それは我慢しよう)の文明社会から取り残された私ですが、近くのマクドナルド(徒歩2分)に一日3回通い詰め、Wifiを確保しています。店員さんに煙たがれていますが、何とか懸命に生きています( ^ω^ )ニコニコ

今回の引っ越しを私なりに音楽論に結びつけて考える事が出来ないかと思いnoteを執筆する事にしました。

今回は

・私の生い立ちと埼玉県春日部市について (Part.1)
・田舎への移住は生活の質が上がるという事について(Part.2)
・ジャズピアニストが世俗から離れて活動するという事について(Part.3)


について書いていきたいと思います。では以下からは書き溜めていた物をコピペしているので敬語ではなくなります。ご了承下さい 笑

私の生い立ちと埼玉県春日部市について

出身を聞かれると困ることがある。3-10歳まで埼玉の春日部で過ごし、10歳から現在に至るまで東京で過ごしたからだ。アメリカ人は「アイムフロムトーキョー」と言うと小学生みたいにキャッキャ喜ぶし、春日部からも20分特急に乗れば陸の孤島・通称足立区の北千住に行けるので、一応ここ数年はアメリカでは「アイムフロムトーキョー」で通している。

誰も私の幼少期の事なんて興味ないだろうが、簡単に私の生い立ちを説明させて頂きたい。私は生後8か月で母・絹子の腕に抱っこされ飛行機に乗り、
インド、タイ、バングラディッシュ、その他東南アジアの国々を転々と移り住み、1歳半から3歳までの間デンマークコペンハーゲンで過ごした。いわゆる北欧帰国子女である。

私の社会福祉、相互扶助、教育、子供の人権問題について意識が高いのはその為である。(←嘘)

4歳になる手前で、埼玉県春日部市に戻ってきた。最初に住んだ家は、両親が良く下見をしていなかったのが徒となった。駅近くのカラオケ店の真裏に隣接する木造の古い家で、深夜まで騒音が鳴り響いたという。幸いにも幼少の私は睡眠を阻害されてはいない。しかし、隣の住人とのトラブルは今でもよく覚えている。隣のおばさんが野良猫を推定10匹も飼っていて、その猫たちが私の家の玄関の前で糞をするのである。いつも帰宅する度に猫の大量のフンに苛まれた記憶がある。隣のおばさんに両親が文句を言っても、オタクらが引っ越してくる前からうちの猫ちゃん達はフンをしているのだから、ツベコベ言うなの一点張りだったそうだ。そういうわけで、私は猫が嫌いである。古い木造住宅が隣接するところで溝が家の前にとおりにあったのを覚えている。1990年に襲った豪雨では溝の汚水が氾濫していた。私は長靴でチャプチャプ遊んでいたが、今考えるとオエェェェェである (・・;) 

デンマークでは中流階級の家庭でも都心から数十分離れたところに、庭付きの大きな一戸建に住むことができる。広いキッチン、大きなぬいぐるみのある子供部屋、リビングルームにはテラスから朝日が差し込み、父は毎朝イーグルスのホテル・カリフォルニア、ビリー・ジョエル等の洋楽をかけていた。広い庭からはリス、ウサギ、タヌキも見る事が出来た。外を出歩けばカラフルな外壁の建物が立ち並びまるでメルヘンの世界だった。週末には家族でチボリ公園に遊びに行ったのも覚えている。

子供の感受性とは豊かである。日本に戻ってきた時に受けたショックは大きかった。英語で「Depressing」という表現がある。日本語では「廃れた」「殺風景な」という意味だろうか。春日部市・一ノ割駅周辺に引っ越してきた時に見る光景は強烈だった。寂れたガードレール、落ちタバコ、臭いドブ、駅前のパチンコ店、殺風景な住宅街が広がり、ジャージを着て登下校する中学生を見て何か寂しさを感じていた。幼いながらも何か暗い空気が漂っているような気がした。

しかし、しばらくするとデンマークでの思い出も薄れ、地元では楽しく過ごしていた。小学生の頃は、放課後になると前川君とミニ四駆を自宅や公園で走らせたり、よっちゃん、児玉くんと一緒に数十円を握りしめ、近くの駄菓子屋・星野に行った。ジャンケンポンマシーンでメダルを集めるのに必死だった。

家族で週末に行くところといえば、ロビンソン、イトーヨーカドーだった。春日部市民文化会館に親子劇場を見に行ったりもした。あと何か祝い事があると、近所の大勝軒、餃子のバンライ、華屋与兵衛、とんでん、バーミヤンに行った。東武動物公園へは家族で100回行った。そのくらいしか遊ぶところはなかった。

春日部市の教育について

小学4年生の時に東京の武蔵野市に引っ越した。3つ上の兄が地元の中学校に進学するタイミングだった。地元の武里中学校は、教師の暴力や校則の厳しさで悪名高かった。学生は上履きだけでなく、外履きや靴下の色まで指定され、野球部は毎朝1限目の前に走り込み1時間。疲れていたら放課後に非行をしないだろうという考えが教師にはあったらしい。体力テストは全国一位。ちなみに私が通っていた備後小学校も毎朝8時から20分ほど全校生徒で校庭をジョギングする時間があった。教師らがトラックの周りを囲み、ちゃんと走らない生徒がいるとメガホンで名指しで注意するのである。当時はそれが当たり前だと思っていたので、東京の小学校に引っ越してきたら朝の運動の時間がないのに驚いた。備後小ではマラソン大会で学年26位の記録を保持していたが、東京の小学校に引っ越すと、その年から卒業するまで3年間マラソンは学年で1位だった。中学校では学年2位を保持していた。一位は濵中君だった。(実は体育会系である)子供に体力をつけさせたいと思う親御さん、やることは単純明快。毎朝子供を走らせることである。足は運動の基本である。

話はそれてしまったが、地元の中学校の教育が悪いと考えた両親は、東京武蔵野市行きを決意する。どうして武蔵野市だったか最近まで知らなかったが、先日母と引っ越しの経緯について聞いたら、母が昔、三鷹に住んでいたから?らしい・・・・

東京に住んでいる間、波乱万丈あったが、結果としては引っ越して良かったと思っている。筆者は、小中高と公立に通ったが、同じ公立学校でも住む場所によってこんなにも子供の家庭環境や育ちがあまりにも違うのかと驚いた。

もちろん埼玉県春日部市にも東京武蔵野市にも、悪い児童・良い児童はいるのだが、春日部の子供のほうが非行に走る子が多かったのは否めない。幼稚園の頃に自宅に遊びに来た隣の家のミー君は食卓の上においてあったコーラグミを勝手に全部食べてしまったし、私が小学生3年生になるまで良く一緒に遊んだ近所のかっちゃんは、私がクリスマスプレゼントで両親に買ってもらった「まじかる☆タルるートくん」のスーファミソフトを盗んだ。ある日我が家で一緒にゲームをして、かっちゃんが帰った後に、ゲームソフトがなくなっているのである。後日かっちゃんの自宅でゲームソフトが見つかった。小学三年生の時に転校してきた早川君は小学3年生にして口臭がすさまじく、クラスの皆から嫌われていた。しかも彼は当時クラスで流行っていたバトル鉛筆や練りけしを盗んでいた。備後小では児童が盗みをよく働くので、担任の先生は抜き打ち検査をしていた。ある日急に友達の名字が変わっているという事も何度かあった。母子家庭の子供も多かった。これは家庭の様々な事情があるので、良い悪いではないが、家庭環境が恵まれていない子供は多かった。

当時私が所属していたリトルリーグの武里ジャンボーズは指導者にはふさわしくない、ヤーさんコーチが指導していた。子供の前で、たばこをプカプカ吸うし、汚い言葉で罵声を浴びせていた。エラーをするとケリを入れる事もあった。保護者はというと、若いヤンママがキティーちゃんのクッションやシートを敷いたワゴン車で登場。夫婦で金髪・ジャージ・サンダル・夫はガラの悪いグラサン・・・というケースが多かった。

武蔵野市のヤクルトスワローズでは、野球の練習は平和的だった。近所の野球の好きなおじさんが集まり子供に指導していた。タバコを吸うコーチもいたが、休憩中に物置の裏で隠れて吸うくらいだ。汚い罵声を浴びせる人もいなかった。

堀田桃子先生との思い出

武蔵野市本宿小学校では、私の恩師の一人である堀田桃子先生に出会った。児童が少ない小学校だったので、私が転向してきた際は、クラス中の皆がうれしそうに迎えてくれた。初めての音楽の授業でも、転校生の私を見た堀田先生は二見くんの為に演奏するわと言って、鼻にリコーダーを2本差し、鼻息だけでリコーダーを演奏してくれた。そんな面白い先生だった。桃子先生はピアノもドラムも歌も上手だった。音楽会のために桃子先生が児童50人の為に描き下ろしたアレンジは素晴らしかった。合奏の面白さを知ったのはその頃である。また桃子先生は、程度の低い文部科学省推奨の教科書を使わず、自作の教科書を使ったり、当時テレビで流れていたアニメソングや、ポップスを授業で演奏してくれるので児童は皆大興奮して歌った。幼い頃に受けた音楽教育というのは大事である。私の音楽に対する愛情が芽生えた一つのきっかけは桃子先生だったと言っても過言ではない。広い音楽教室にはグランドピアノが2台、木琴やビブラフォン、シンセサイザー、ドラム、金管楽器、何でもあった。常に児童に開放されていて、休み時間は良く練習しに行った。備後小学校では児童が悪さをするからとカギがかかっていたのを考えると正反対である。

長くなってしまったが、幼少の頃に受けた教育は本人の人格を形成する上で重要な役割を果たすのである。春日部の住民を蔑視するのではない。ただ、私があの春日部の一角で成人まで過ごしていたら今とは全く違った価値観をもった自分になっていたと思うのである。

今日は小学2年生の時に、春日部の二軒目の自宅の隣にあった公園で遊んでいた時、地元の不良小学6年生組が私のピュアな心を蹂躙した話をして結びとさせて頂く。

不良少年「ゆうちゃん(^o^) これから俺らが何を言ってもセッ◯スって言ってね?」

私「( ^ω^ )うん!」(←ブランコを漕いでいる私)

不良少年「ゆうちゃんはいつも何をしているの?(^o^) 」

私「セッ◯スーーーー!!( ^ω^ )」

不良少年「ゆうちゃんの趣味はなにーー??(^o^)」

私「セッ◯スーーー( ^ω^ )」

その時であった。それを目撃した母が私を呼び止める。
「ちょっと、ゆうきぃ!こっち来なさい!!」
小学2年生ながら、何かしら悪い言葉を教えられているのは分かった。でもあどけないふりをして不良少年をキャッキャと喜ばせていた私。さて母は何て言うのであろう?

「いい?セッ◯スとはね、男と女の人が裸でベッドに入ることなのよ。だからその言葉は言っちゃだめなの!!!」

中々的を得た説明であった。

【続く】

ジャズピアニスト 二見勇気
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